第8話:「フツウ」

 あっという間に冬が終わり、全国各地で桜の開花が報道される春。私はこの季節が一年で一番嫌いだ。


 いわゆる『新社会人』が、ぴしりとしたスーツを着、傷ひとつない革靴で電車内を占拠する。馬鹿げたたらればと自覚はしていても、まるで誤って皮膚に触れてしまった瞬間接着剤のように、頭にこびりついて考えてしまうからだ。


『私も大学に行って四年間勉学に励み就職活動をして内定が取れていたら——』


 馬鹿げている。私は自分の意思で公立高校に入り、自分の意思で退学した。

 その後公認はとったものの、両親が危惧していた『協調性の欠如』が見事に花開き、アルバイトも契約社員も全く続かなかった。

 バイトで最も長く続いたのはコールセンターの受信業務で、それでも半年にも満たなかった。


 しかし、私は現状の仕事にそこまで不満はないし、まあもう少し経済力を上げて家を出たいとは思うが、何だかんだ言って実家暮らしは楽なものだ。私より八つ上の兄は、一流大学から一流企業への就職が決まって実家を出、今は婚約者と共にそれなりに良いマンションに住んでいる。


 嗚呼、分かり易い。


 人間は可視化されたものしか認識しないんじゃないかと、たまに考える。


 その最たる例が母親だ。

 私は現在、複数のウェブサイトと契約して、主に海外文学について記名記事を書き、しっかりと原稿料をもらっている。過去に幾度となく小説を書こうとして幾度となく挫折してきたが、私は、自分が読んだ本の中に入り込み、世界観を壊すことなくその魅力と、時には欠点も見極め、それらを客観的な文章にすることだけはできた。


 幼い頃から本の読み過ぎで変人扱いされたり『協調性』とやらの低さを指摘されては、職場で『仕事が遅い』、『どんくさい』とクビを切られてきた私にとって、自分のペースで本を読み、ただ感じ、だがアンテナは多すぎるほど立てて読了し、レビューを書くこと、それでフルリモートの文芸系WEBライターになれたのは、いわば私が『初めて社会に受け入れられた』瞬間であり、それなりの自負もあった。


 しかし私の両親、特に母親は、私がやっているようなネット上の仕事を、何か怪しい、取るに足らないものだと思い込んでいる世代なのだ。彼女は事あるごとに言う。


——インターネットなんてよく分からないものじゃなくて、もっとちゃんとした仕事をしなさい。

——あんたももう二十四なんだから、『ちゃんと』就活して『まとも』に働きなさいよ。


 よく分からないもの、なんて認識でよくもまあ断罪できるものだ。そもそも『まとも』とは何か、彼女は説明できるのだろうか? 普通に全日制の高校を卒業して普通に大学に四年通って就職活動を経て通勤してオフィスなり何なりで週五日八時間の労働をすることが、それだけが『まとも』の基準なのか?


 毎年、こんなことを考えてひとり苛立ってしまうこの季節だが、今年はひとつだけ楽しみがあった。


 四月に、あのギュスターヴ・マルが初来日するのだ。しかも、十二日は新宿紀伊國屋でサイン会まで行われる。


 新宿LOFTでヒズメさんと話していた初期の短篇集は、言うまでもなく購入して読み、ますます彼のファンになった。今回の来日はそんな彼の最新刊に際して決まり、私はギュスターヴ・マルという新進気鋭の作家が日本でもっと認知されれば、と祈っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る