第6話:「最強」
私は後ろに下がっていくファンにぶつかられながら、それでもさっきまでヒズメさんが歌っていた低いステージから目を離せなかった。スタッフが撤収作業をしていると、数名の女子が、
「セトリくださーい!」
「ピック欲しいんですけど!」
と、何やら物乞いのようなことをしていた。
興味を持った私は、最前列まで行ってみた。その時初めて、低いステージが白と黒のチェック模様だと気づいた。ヒズメさんのマイクスタンドをスタッフが持ち上げた瞬間、何か三角形のものが自分の目の前に落ちたように見えたので、手を伸ばした。あっさりと私の右手が拾い上げたのは、ヒズメさんがマイクスタンドに予備として用意していた黒いギターのピックだった。
何という手土産だ、と思いつつも、初のスタンディング・ライブに疲労困憊だった私は、ドリンクも買わずにフロアを出て、テーブル席に腰を下ろした。
フロアからはまだ音楽が鳴り響いていたが、あのヒズメさんのパフォーマンスを目撃した後だ、どんなにかっこいい曲が鼓膜をノックしようと私は気づかないだろう。
バーカウンターでジンジャエールを購入し、一番奥のテーブルに座り直すと、真横の木製の扉が開いた。何気なく目線を上げると、私は凍り付いた。
ヒズメさんだったからだ。
「あっ! 静井さん!」
名前を呼ばれてさらに驚愕する。覚えてもらえていたとは。缶ビール片手に、ヒズメさんは断りを入れてから私のテーブルの向かい側に腰を下ろした。
「あ、あの、ライブ、お疲れ様でした」
それだけ言うと、ヒズメさんはイブの夜と同じへにゃっとした笑みを浮かべ、
「名刺に書いてあるメアドに感想来なかったんで、お気に召さないのかと思ってました」
「あの、YouTubeにある動画を全部見るのに時間がかかってしまって、お返事が遅れてしまい——」
「えっ?」
私が言うと、ヒズメさんは鳩が豆鉄砲どころか実弾を食らったような顔をした。
「え、え、俺のチャンネル、曲だけで三十二曲あるし、ライブ映像とか、昔の弾き語り配信のアーカイブとか、全部で何十時間もあるはずなんですけど……」
「はい、感想をお伝えするなら全部見てからが礼儀かと思いまして……」
私は、自分が何か変なことを言ってしまったかのように感じた。ヒズメさんが両手で顔面を押さえ、天を仰いだからだ。
「え、ええと、失礼だったらすみません。でも最初の曲を聞いた時に、これを、その、ヒズメさんの音楽を、可能な限り聞きたいと思ったんです。私、先日言った通り、音楽のことは何も分かりません。でも、『深更、最果て』を聞いた時、なんて言うんでしょう、その、止まらなくなってしまって……」
言い淀むと、ヒズメさんはようやく顔を私の方に向け、隠していた両手のひらを解放した。その奥にあったのは、さっきのライブでの能面ではなく、あのイベントの時と同じ笑みだった。
「……最強の感想、ありがとうございます」
極めて嬉しげに、ヒズメさんは言った。
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