20××,08,×× Ⅱ
追記:蒼のさ!絵が完成したんだよ!すごかったなぁ。すごく綺麗だった。俺は絵が描けないし、詳しくないから技法もわからない。モネとかルノアールとか、印象派とかの図録をよく見ているのだけは知ってる。
いつか持って帰って来れるなら、どこかに飾ってくれないかな……。
もうただ、ただ、蒼の頭の中の世界を見られたということが、なんだかすごく嬉しかった。
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「ほら、ね?」
「1年生の夏、だよね?」
「そう!思い出した?」
「実家のリビングに飾ってあるやつだね。」
「そうそう!あの、海の絵だよ。」
思い出した。僕は憧れのひとつを描いた。青色が好きだし、海への憧れがあるんだ。本物の海を参考にした訳ではなく、僕の頭の中にある憧れている海を描いた。それは、深くて広くて、包まれる音が心地よくて。名も知らない魚たちと、どこへ向かうでもなく泳いでいる。そのまま海に溶けていけたら、どんなに心地いいだろう。その気持ちが筆の運び方と選ぶ色に溢れ出ていたと思う。それをどこまで、絵を見た人が感じ取ったかはわからない。覚えているのは、唯一たったひとりだけ、反応が違ったということ。
「蒼すごいな!すごく綺麗だよ……。」
「本当にね!蒼くんはすごいや。」
兄ちゃんと黄くんは、まじまじと目をキラキラとさせて絵を見てくれていた。この部分はどうやって描いてるの?とか、どんな道具を使ったの?とか、たくさん聞いてくれる。嫌味もなく、こんなにただ真っ直ぐなふたりを見ていたら、早く仕上げなきゃと焦ってこんがらがっていた頭がようやく鎮まった。そうか、仕上がったんだ。楽しそうに、何故か嬉しそうなふたりを見て笑ってしまった。
でも、要くんだけは違った。静かに眉間に皺を寄せて、少し遠くから絵を見ていた。ふたりとは対照の表情と空気のまま、しばらく口を開くことはなかった。
橙と濃紺が混じり合う中、棒アイスを齧りながらみんなで家へ向かった。兄ちゃんと黄くんは途中からどちらが早く家に着くか、競走し始めていた。見ているだけで暑い。そんなことを思う僕を見て、
「あいつら、元気だなぁ。」
要くんが笑みと共にこぼす。
「見ているだけで暑くなるけどね。」
「確かになぁ。」
うまく言い表せない何かが、僕らの間を通り抜ける。空気は少し重たい。
「なぁ、蒼。」
「なに?」
「あの絵は、蒼の憧れを描いたって言ったな?」
「そうだね。」
「それは……苦しいもの、か?」
「……どういう意味?」
「いや、上手く言い表せないんだけどさ……。」
要くんは、最近、言葉を濁すようになった。ふたりといるとあんなに快活なのに。豪快に笑うのに。どうして、そんなに遠慮をしているんだろう。
「……要くん、」
「ん?」
「思ったこと、教えて。」
「……え?」
「絵の捉え方なんて様々だし、いろんな意見をもらった方が、また次の絵に活かせるから。」
「……そうか。そういうものか。」
「そうだよ。音楽だってそうでしょ?」
「うん、そうだな。」
そう言って、笑った。
「なんか、あの絵を見てさ。」
「うん。」
「蒼が、遠くに行きたいんじゃないかって思ってさ。」
「遠く?」
「そう、遠く。青色がめっちゃ綺麗だった、それは事実なんだ。でも、じっと見ていたら……遠くに行きたいんじゃないかって、ここから離れたいんじゃないかって。そう思ってることに対して、ちょっと苦しんでたりしないかなって。はは……勝手に何?って話だよな。ごめん。」
「……なるほど、そっか。それで、あの表情だったのか。」
「はは……怖い顔してた?」
「眉間に皺寄ってた。」
「え、マジか……ごめん!絵を見てそんな顔されたら、嫌だよな。」
「いや、嫌とは思わなかったよ。」
僕としては純粋に、憧れとして描いた絵だ。でもよく考えたら、海になれたら、なんて思いは捉え方によってはかなり闇深いのかもしれない。
「どうなんだろう。僕としては、そういう気持ちを込めたつもりはないんだ。」
「そう……そうか。思い違いなら、それでいいんだ。」
「……潜在的に、僕の中にある気持ち、なのかもしれないね。自覚はないけど。」
「絵を描いたら、無自覚の中から出てきたってことか?」
「うん。だから、教えてくれてありがとう。」
「……いや、ありがとう、なのかな?」
「うん。僕に見えてない僕を、教えてくれたから。」
「おーい!要!蒼!おせーぞ!」
「ふたりとも!お腹すいたよ〜!ダッシュして〜!」
何故か口にした瞬間、頬が燃え上がったところを、兄ちゃんと黄くんの声が少し鎮火してくれた。
「おう、今行く。蒼、走れるか?」
「うん。行こう。」
要くんから顔を逸らして、ふたりのところまで走った。
僕はその時には知らなかった。何故、要くんから絵に対する感想を聞いたのか。きっとこれが兄ちゃんや黄くんが相手なら、わざわざ聞かなかったかもしれない。なのに何故だろう。要くんの考えが、知りたい。感情を、知りたい。何故そんなふうに思うのか、僕にはわからなかった。そのわからない、を理解してしまうのが、なんとなく怖かった。その気持ちに栞だけを挟んでおいて、今日のご飯はなんだろうとか、帰ったらどの本を読み返そうかとか別のことを考えて、心の本棚の死角へ追いやった。
実を言うと、その夏の日には既に、数えきれないほどの栞を抱えていた。今思えば、もっと早くにその感情と向き合っておくべきだったな、と思う。
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