第13話
幼い頃に習っていたことは、成長しても体が覚えているものだ。
ピアノは母から教わった。
実家の玄関に、所在なさげに置かれたピアノ。
母が父の元に嫁ぐ時に、嫁入り道具よろしく持ってきたものだ。
玄関を開けるとすぐに目に入るソレを、最初父は嫌がっていたと思う。その嫌がる理由は決して父が音楽嫌いだからということでも、玄関に置いて邪魔だという理由からではない。
小さな家に大きなピアノという不釣り合いさと、ピアノを置けるだけの家を構えられなかった自分の甲斐性の無さから来るものだ、という事は私が少し大きくなって引越しをした時に、ピアノのための部屋を構えた父の計らいを見て知った。
赤ん坊の頃から、美月は母のピアノ演奏を子守唄に、眠りについていた気がする。
母はよく歌いながらピアノを弾いていた。
美月を膝に乗せ、片手でピアノを弾く。それも玄関で。
そんな奇妙な光景を、私は子供ながらに覚えていた。
指は止めどなく動く。
オルガンから発せられる音色はないが、美月の頭の中では聞こえないはずの音色が踊っている。
母と同じように、美月は自然とメロディーを口ずさんでいた。
◇◇◇◇少し時間が前後する◇◇◇◇
昼休みの喧騒は、夏休みを思い出させる。
校庭で練習に励む野球部や陸上部、吹奏楽部の演奏は、今では生徒たちの楽しそうな喧騒にとって変わられている。
そんな青春の喧騒の中を、義隆は歩いていた。
どうして昼休みに校舎の中を歩いているのか。
それは自身の忘れ物を取りにいくためだ。
担任するクラスで小テストを行った後、午後からの授業で使う日本地図を社会科準備室に取りにいくつもりだったが、小テストの束を回収して、そのまま職員室へと戻ってきてしまっていた。
自作の弁当を開けようとした時に、それに気づいたのだが、今取りに行くかどうかで逡巡する。
お弁当を食べてから、ということもできるのだが、先ほど後で取りに行こう、と考えていたのに忘れてきていた手前、義隆の頭の中の臨時会議によってその案は却下される。
義隆は、開きかけた弁当蓋を再度閉じると、社会科準備室へと向かった。
すれ違う学生たちと挨拶を交わし、4階への階段を登る。
1年生は3階の東棟、2年生は2階の東棟、3年生が中央棟という配置で各学年が振り分けられているため、必然的に4階を利用する生徒の数は少ない。
中央棟は片側一面に部屋があり、長い廊下によってつながっている。
対して東棟は、廊下を中心に両サイドに各教室や特別教室が備えられている作りだ。
大きくコの時を描く様に設計された校舎は、各学年に10クラス分の生徒を受け入れても余りある広さがあり、中央棟と東棟にはそれぞれ左右と中央に階段が設けられ、端から端までかなりの距離がある。
移動教室で授業を受ける教室が変わろうものなら、5分前行動をして始業のギリギリになるなんてことはざらにあった。
そんなマンモス団地ならぬマンモス校舎は、特に4階が教師も生徒も含めて敬遠されている。
単純に移動する距離が長すぎることと、4階まで階段で上がるというのは若い時分には問題ないが、歳を取り体力が衰えた者にとっては避けたい移動だ。
しかし避けたいとは思いつつも、どうしてもその場所にしかないものがある。
それは図書室であったり音楽室であったり視聴覚室であったりと、特異科目や広い面積を必要とする施設だ。
そして各科目の準備室がある。
どうやら、この学校を作った人は、一年生に厳しいがそれ以上に教員にも厳しい人だったようだ。
4階に着くと人気はない。
昼休みに図書室を利用する学生もいるが、飲食が禁止の図書室を昼休み早々に利用する生徒はおらず、図書委員の生徒がまだ職員室に鍵を取りにきていないこともあり、施錠されたままだ。同じく、音楽室や視聴覚室は使わない時は施錠がされていて入ることはできない。
義隆は東棟の方にある社会科準備室へと足を進めた。
中央棟とは違い、両側に教室がある作りのため日光は差し込みにくくなっている。
そのため、使用していない場所であっても廊下や階段、踊り場といった場所では、常に明かりとなる電気はつけられていて、誰かが意図的に電気を落とさない限り、暗くなることはない。
東棟の右側。
廊下の半ばあたりにある社会科準備室に向かう途中で、義隆は小さな声をきいた。
遠く階下の喧騒に混じり、歌声が聞こえる。
歌詞はなく、メロディーを奏でているだけのそれは、風にのって義隆の耳に流れてきた。
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