第14話

 指先がしなやかに鍵盤を叩く。

 本来奏でられる音色は聞こえないが、美月の口ずさむ旋律が教室を満たしていた。


 美月が住む女子寮の部屋にはピアノはない。

 しかし、寮母が音大生ということもあり、寮母の部屋にはピアノが置かれている。

 気の良い寮母は、休日であり日中であれば美月がピアノを弾くことを了承してくれている。

 これまでに何度も休日の昼下がりにお茶菓子を片手に訪問していた。

 そのため久しくピアノから離れてはいたが、まだまだ指は動く。


 最初は鼻歌程度。

 しかし、曲が進むに連れて弾む美月の心は、ラララと声に出して主旋律を奏でていた。


「いい曲じゃないか」

 不意に聞こえた声に、美月は驚いて立ち上がる。

 鼻歌というかもはや歌っていた自分の姿を、見られていた。聞かれていた。という恥ずかしさから、頬が紅潮する。

 唇を噛み締めて振り向くと、入り口に立っているのは義隆だった。

 扉を開けて両腕を組んだ状態で立っている彼は、まるで悪戯を見つけた父親の様。


「どこかで聞いたことがありそうなんだけど……なんていう曲なんだ?」

「『悲槍』です」

「ひそう?」

「ベートーベンのピアノソナタ第8番[悲槍]ですよ」

 鍵盤の蓋を美月は閉じる。

 もうおしまい、と行動で義隆に示した。

「悲しそうな命題タイトルなのに、楽しそうに歌うんだな」

 義隆が微笑む。

「……どこから見てたんですか?」

「さぁ?どうだろう。かなり最初からかもしれないな」

「なっ」

 それはとても問題発言ではあるが、こちらの恥ずかしい気持ちに気づいていない義隆には伝わらない。

 また紅潮する頬がバレないように、美月は視線を義隆から逸らした。


「しかしなんでこんなところにいるんだ?」

 義隆は素朴な疑問を投げかける。

 今は昼休みだ。

 生徒たちは各々教室だったり部室だったりで昼食をとっている。

 それがこんな人気のない教室に1人でいるなんて。

 悪い方向に義隆の想像が進んでしまう。


 それを察したのか、美月はすぐに否定した。

「おっちゃんが想像したようなことはないですよ。今日は気分を変えたかったので、流花と一緒にいつもとは違うところでご飯を食べようってなって」

 そう言って、美月は口をつぐむ。

 これでは空いている教室を勝手に利用していることがバレバレではないか。


 その正直さに対してなのか、義隆はクスリと笑うと。

「あー。確かにこの教室の鍵ちょっと変だな」

 扉の内側にある扉の開閉錠を上下に動かそうとしているが、つっかかりがあるようで閉めることができないことを確認している。

「鍵が空いてるから秘密基地的に利用してるってことだな」

 義隆の表情は教師が生徒に対して説教をするようではなく、悪い遊び仲間の遊びを見つけた同志のようだ。


「別に悪いことしてるわけじゃないですよ」

「だろうな。悪いことしようとしてる奴が、歌なんてうたって–––––」

「それは忘れてください」

 美月はかぶせるように、義隆の言葉を遮る。


「どうしてだ?歌も上手いじゃないか」

 美月の頬がまた少しだけ赤らむ。

 まっすぐに褒められることが、どうも美月にはくすぐったい。

「ん?歌も」

「ああ。歌いながら弾いていたんだろう?ピアノの音は聞こえなかったが、ちゃんと––––––––」


「お待たせー!!」

 と勢いよく部屋に入ってきたのは流花だ。

 手には購買のパンをいくつか持ち、勢いよく教室を覗いたが。

「げっ‼︎おっちゃん‼︎」

 義隆の姿を見て、顔をしかめた。


「山本……元気なのはいいが、げっ、はダメだ」

 頭を抱えて注意する義隆に、流花はごめんなさい、とすぐに謝った。

 こちらをチラリとみる流花に、美月はごめんね、と手を合わせる。

「2人とも、あまり部屋を汚すんじゃないぞ。ゴミはゴミ箱に。それだけ守ってくれたら僕は何も見ていない」

 そう言った義隆は大人の兄貴のよう。

 使われていない教室で何をしているのか、と様子を見にきたが、悪いことはなさそうだと判断したため、義隆はこのことを特に問題にすることも注意することもしないと決めたようだ。


「山下」

 音楽準備室を出て行こうとする義隆が振り返る。

「来月にある文化祭で、教師だけのサプライズで出し物をするんだが」

 清風学園では、変な伝統がいくつかある。

 その内の一つが、教師による学校行事でのサプライズだ。

 校内で行われるイベントで、主に体育祭と文化祭になるのだが、生徒たちの出し物に混ざり、何かしらのサプライズを教師たちがしかけてくる。

 1学期の運動会では、教師全員がどこかの頭のいい大学の卒業式を彷彿とさせるようなコスプレ姿で登場した。


 校長先生の挨拶で、日本を代表する某スタジオに登場する東の地からやってきたイケメン鬼武者の装いで、狗神に川で神に尋ねる時のように話だしたのには、生徒全員が笑いを堪えるのに必死だった。

 また部活対抗リレーにも参加し、映画泥棒のリアルコスプレをした教師たちが、バトンを繋ぐ姿には感動すら覚えたほどだ。もちろんバトンではなく、映画のフィルムをバトンの代わりにして、ルール違反ではあるがパトランプのコスプレをした教師に、そのリレー中ずっと追われ続けるという演出付き。1人で3周分トラックを全力疾走したパトランプ教師が誰だったのか、今だに謎のままであるが。


 そんなお茶目な一面のある教師たちは、また何か面白い催し物を考えているのだろう。

「もしかしたらピアノが必要になるかもしれないんだが、その時に少し協力してくれないか?」

 清風学園の文化祭は周りとは少しずれていて10月の第3週の土日に行われる。

 まだ少し先のことであるが、教師たちが文化祭の時になにをやるのか、を真剣に話し合ってる姿を想像するとおかしく思えてしまう。

「でもそれって、先生たちが私たち生徒のためにサプライズしてくれるんですよね?私が手伝ったらサプライズじゃなくなってしまいますよ」

 教師のサプライズに生徒が手伝ったら、もうそれはサプライズではなくなってしまう。至極真っ当な話であるが、義隆の方も仕方がない状況だった。

「そうなんだが、音楽の高山先生が手を怪我してしまっただろ。この学園で唯一ピアノが弾けた先生だったんだが、あの怪我ではピアノが弾けないんだよ」

 高山先生は休日のサイクリング中に豪快に転倒をしてしまい、腕を全治一月半の骨折をしてしまっていた。確かにあの怪我ではピアノを弾くことはできない。

 そのことを思い出すと、義隆が相談してきたのもうなづける。

「まぁまだ何をするか最終決定はしてないんだが、もし必要になったら相談させてくれ」

「そうですね」

 少し意地悪な感情が、美月の心を揺らした。

「気が向いたらいいですよ」

 それは、あの日、義隆に言われた言葉だ。

 行けたら行く同義語に近い言葉。だけど美月の表情は、その言葉とは裏腹の笑顔である。

 声音も自身はおさえているつもりなのだろうが、少し高揚した陽の感情。

 肯定としか捉えられない曖昧な返答を、義隆は素直に受け取った。

「すまんな。また進展したら相談させてもらう」

「はいはーい!おっちゃん‼︎私もいつでも手伝いますよ」

 流花も義隆のヘルプに手伝う気満々だ。

「ああ。その時は山下にもお願いしようか」

 そう言って、義隆は教室から去っていった。


 視線が痛い。

 義隆がいなくなった後、己が来るまでに何があったのか説明求む、の爛々とした瞳の流花が、美月を見つめている。

 どうやら、今日のお昼の話題は、今日の出来事を語る、しか選択肢がないようだ。


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