第16話

 高校の授業は退屈だ。

 数学は見たこともない記号を用いて計算を行い、求められる数式も結果も、今後の人生の中で専門分野でしか使用しないレベルのもの。

 ただ学校で習うということは、それなりの常識として社会で求められるものであり、使わないからと言って、勉強をしないというのは愚かな行為だと思っている。

 ただ、√の記号やπの記号、二次関数のグラフやその求め方など、どうやったらそこに行き着いたのか、先駆者の偉大な足跡には感嘆のため息がもれる。


 公式に当てはめるだけの簡単なお仕事だ、と数学教師は言うが、普段から日常的に触れていない美月にとって、それらの公式は未知との遭遇以外の何者でもない。

 まぁまだ数学は優しいほうで、これが化学の公式となると、まるで古代遺跡から古のいにしえ古文書を発掘し解読を試みる考古学者の気分だった。


 美月の授業態度は比較的真面目だ。

 机に突っ伏して眠ることもなく、黒板の板書をノートに写し、教師の話に耳を傾ける。

 50分の授業の全てに集中しているわけではないが、それなりに頑張っている生徒の一人だ。


 6限目の授業。

 今日は、朝から英語数学科学に体育とかなりハードな科目の詰め合わせで、周りの生徒は脳も体力も疲れ切っている。

 そんな残念な曜日の最後を締めくくる科目は、日本史の授業だ。

「はーい、授業始めるぞー」

 短い10分休憩を終えて、6限目の授業開始を告げるチャイムと共に、日本史の教師兼美月のクラスの担任でもある義隆が教室に入ってきた。


 談笑していたクラスメイトたちも、各々自席へと着席していく中。

『今日はもう疲れたんで自習にしましょうよ』

 とクラスのお調子者が義隆に向かって言った。

「ダメだ。時間割は変わらないんだから、一度自習にするとずっと自習にしないといけないだろ」

『でも英語に科学に体育に……。もう頭も身体もライフゼロだぜー』

「そうは言っても、この時限が終われば放課後じゃないか。適度に手を抜きつつ走り切ることを覚えないと、この先もっとつらいことあるぞ」

 少し教師ならざる発言も出ていたが、全力を出し尽くして倒れてしまっていては生産性は悪いし、効率も悪い。

「みんなはこの後、部活なり帰宅なりの自由時間だろ。僕はこの後も授業とは別の仕事をしたり、明日の準備や日報だったりとやること沢山あるんだ。授業で息抜きさせてくれてもバチはあたらないだろ」

『うーーい』

 今日はこれで最後、という言葉が効いたのか、お調子者は同意して日本史の教科書を取り出した。

 始業のチャイムから5分ほどの時間が過ぎてしまったが、日本史の授業では最初の雑談は平常運転だった。



「じゃあ、早速だけど、先日のテストを返却するぞ。名前を呼ばれたら取りにきてくれ」

 義隆の宣言は、クラス内の悲鳴とほぼ同時だった。

 補修等のペナルティがあるわけではないが、テストが返却されて自分の点数が如実に見せつけられるのはいい気がしないからだ。


 名前はランダムで呼ばれ、受け渡しの時に義隆から一言言われる。

「漢字間違いがあるから気をつけよう」

 とか。

「年号の語呂合わせが間違ってる」

 といった注意もあれば。

「よくできました」

 と言葉の花丸をもらえることある。


「山下」

 美月の名前が呼ばれ、美月は席を立った。

 教卓の傍で、テストが返却される。

「よくがんばったな」

 手渡す義隆はニコリと微笑んで、折り目がつかない程度にテストを二つ折にして美月に手渡した。

 テスト用紙は、背面を外に向けるようにおられていて、間違った箇所や点数もわからないようにされている。

 手渡しの際に、前の席にいる他のクラスメイトに自身の点数をみられないための配慮だ。


 美月は自席に戻ると、畳まれていたテスト用紙を開く。

 マルとバツ印があるが、丸の方が圧倒的に多く点数もかなり高い。

 でもその点数以上に、美月が目を奪われるものがあった。


 それはテスト用紙の名前欄の隣に書いた美月の落書き。

 熊のようなキャラクターが筆とパレットを持って立っている落書きに、書き足されているものがあった。


 美月が描いていないキャンパスが描き足され、そのキャンパスにはまるで某フランスの美術館に所蔵されている佇む美女のような構図。

 猫耳の少女の姿が描かれていた。

 黒髪のショートヘアに、薄くグレーかかった瞳には金色の縦長の瞳孔があり、黒いワンピース姿のそれは、清風学園を背景にして佇んでいた。


(これって……)

 猫耳の少女は、まるでゲームの世界のキャラクターのようで、おおよそ人とは思えない。

 ただ、その雰囲気がまるで美月自身をモチーフにして描かれた気がした。


 生徒たちは義隆の採点ミスがないか必死で粗を探している中で、美月はもうテストのことなど忘れてしまっていた。

 思わず手をあげそうになった自分を、美月はギリギリで思いとどまる。


『これって私ですか?』

 という質問は、文章で表すとたった一行で、言葉にすれば一言だが、それを聞くには想像以上に高い壁がある。

 教室で、他のクラスメイトの目がある中で、義隆にそんな質問をする勇気は美月にはなかった。


 ただ。

 可愛らしく描かれた猫耳の少女を見ていると、少し心が揺れている気がした。

 きっと、義隆は美月をイメージして、この絵を描いてくれたのだ。美月自身が、義隆をイメージして熊のキャラクターを描いたように。

 ぼんやりと、美月は想像を膨らませていた。

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