第8話

 心地よい眠りを妨げるのは、いつも不快な電子音だ。


 クーラーの恩恵により、26度に設定された室温は、快適な眠りを部屋の主に提供する。

 あれほど、けたたましく鳴いていた蝉たちの声はいつからか聞こえなくなり、まるで皮膚を焼かんとする殺人的な日差しもいつの間にか柔らかいものとなっていた。



 ここは、私立清風学園の女子寮の一室。

 山下美月の部屋は、6畳1K仕様の簡素な作り。

 各部活動の推薦入学で通う生徒の受け皿となる寮だが、部活に所属していない美月が間借りしている状況だ。

 というのも、美月の父が、美月が高校に入学を決めた後に、海外へと転勤の辞令が出てしまい、海外の砂の多い地域へと転勤していく父についていく勇気がなかったためだ。

 祖父母を身元引受人にして、日本に残ることになった美月だが、祖父母の家は高校に通うには距離があり、高校と協議の上で、部活生用の寮に住むこととなったのだ。


 部活生の寮と言っても、各部活で雁字搦めに派閥のあるような場所ではなく、温和な寮母となる音大出身のお姉さんの管理の元、かなり居心地のよい環境だった。


 美月の部屋は、年頃の女子高生にしては、無味無色の質素な部屋。

 小学生の頃から使っている勉強机に、天井まで届く本棚が1つ。

 テレビはなく、寝相がわるいからと買ってもらったセミダブルのベッドがあるだけで、全てが白で統一された空間だ。

 可愛らしいぬいぐるみの類もなく、本棚にはミステリー小説やSF文庫などの活字ばかりの小説が並んでいる。

 床には本棚に収容できない本が一山あり、そろそろ本棚をもう一つ買おうか思案中。

 洗濯物と昨日寝る前に読んでいた本が一冊床に落ちていて、部屋少し散らかっていた。


 まだモヤのかかった思考の中。

 レースのカーテンからは、日の光が部屋に差し込んでいて、今も電子音は鳴り響いている。


 その現実が、部屋の主の心を奈落へと突き落とす。

 ボタンを押すだけで、けたたましくなり続ける音は止めることができるが、時間までを止めることができない。

 タイムマシンの存在を本気で願いながら、部屋の主は不快な音の元凶であるスマホを手に取った。


 時刻は6時30分。

 まだ眠り足りず、視界がぼやける目を擦り、部屋の主こと美月はベッドから体を起こした。

 意識は7割は覚醒していて、残り3割はまだ機能していない。

 このまま眠ってしまいたい欲望を振り払うように、美月はシャワーを浴びにユニットバスへと向かった。


 今日は9月1日。

 40日近く怠惰の限りを尽くした至福の期間(夏休み)は終わりを告げて、今日から学校が始まる。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 学生と通勤する社会人で路面電車は悲鳴をあげている。

 昨日までの閑散としていた光景とは打って変わり、学生が通勤ラッシュの時間に加わったことによって、車両に乗車できる限界まで人を押し込んで走り続ける。

 美月は幸いなことに、路面電車の始発駅が最寄駅のため、早朝であろうと午後であろうと乗る車両に拘らなければ、無難に座ることができた。


 清風学園まで4つ駅を通りすぎる。

 路面電車に快速や特急などの駅をスキップする車両はない。

 それほど大きくないホームでは、さまざまな人がやってくる路面電車に乗るために、順番待ちをしている。

 内心、われ先にと乗車したい気持ちをグッと自制して並ぶ光景は、他の国からは賛辞を送られるほどだ。

 新しい乗客は、なんとか隙間を見つけて、あるいは強引に体をねじ込んで、乗車してきていた。


 海で遊ぶ人たちは一部のサーファーを残すだけで、海岸は閑散としていた。

 もう夏が終わったのだ。

 別に部活動で夏の大会を終えたというわけでもなく、まして夏に人生をかけているわけでもない。

 ただ、夏が、夏休みが終わってしまったことが悲しくて、海をみていると哀愁を感じてしまうのだ。


(やめよ。これから新学期なのに)

 美月はマイナス方向に向かって爆走し始めた感情の暴走列車を、強制的に停車させた。


 海岸沿いを走る同じ清風高校の制服を着た学生と目が合う。

 ロードバイクを漕ぎながら、器用にこちらに手を振ったのは流花だ。

 そこらの原付と競争でもしているのかと思うほど颯爽と駆ける流花を、路面電車はゆっくりと追い抜いていく。

 美月は周囲の目もあるため、小さく手を振り返すに留め、

(駅で待ってよ)

 と、久しぶりに会う友人のことを想った。

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