第6話
集中の糸が途切れるのは唐突だ。
それまで風の音や、自分の心臓の鼓動でさえも聞こえていなかったのに、真横で漏らされた率直な感想の言葉を、この耳は聞き逃すほど空気を読めなかった。
まるで機械のように、それでいて繊細に動いていた右手はぴたりと動きを止め、静寂を破った主の方に、男は振り向いた。
手を伸ばせば届くほどの距離に、女生徒が立っている。
口元を抑え、しまった、と目を見開いて、自らの失態に後悔していた。
「山下……か」
口元を抑えて立っている女性とは、男が担任として受け持つクラスの生徒だ。
名前は山下美月。
北欧とのクォーターで、見目麗しいとそこそこ評判のいい生徒。
ただ、部活動に入ってるということはなかったので、夏休みが始まったばかりの学校に来る理由がないはずの子だ。
成績は可もなく不可もなくという、平均という安全圏を飛行する定期便状態。
補修になるはずはなかったはず。
となると。
「どうした?夏休みだったのを忘れて登校してしまったのか?」
彼女が夏ボケをかましてしまっているのだ、と結論付けて、かなり真剣に問いかけた。
「最近暑いから、頭がぼーっとしているんだろ。あいにく今日は夏休みで、保健の橘先生もお休みだが、保健室は開いている。体調が悪いのなら、少し休んでいくといい」
保健室は、部活動の生徒がいることもあり、鍵は朝の時点で解放している。
保健室の前には、今は咲いていないが桜の木が植えてあり、さらに垣根もある。グランドから直接見えないような作りになっているため、如何せん風通しがよろしくない。
そのため、彼が当直の日は、鍵の解放と同時にクーラーをつけっぱなしにしておくという暴挙を行なっていた。
熱中症で運ばれた生徒が、外よりも過酷な環境になりかねない保健室で休むなど、もってのほかだ、という考えのもとだ。
その代わりに、彼が普段いる職員室はクーラーをつけないという等価交換で帳尻を合わせていた。
男の優しさをバカにされたと思った女生徒もとい美月は、口元を抑えてやらかした、という表情から、目元を釣り上げて怒りの表情へと変わる。
「そんなわけないでしょ!おっちゃんじゃあるまいし!私は忘れ物を取りに来ただけよ」
教師に向かって指を刺し、今にもその指で刺し殺してやろうか、という勢いで捲し立てる。
バカにし過ぎたためか、若干美月の口調が荒くなっているが、それを咎めるようなことはしない。
火に油を注いだのは、彼自身なのだから。
「こらこら。教師に向かっておっちゃんはダメだって言ってるだろ。北条先生と呼びなさい」
男もといおっちゃんもとい、北条義隆(ほうじょうよしたか)は、まるで戦国武将にいそうな自分の名前を、改めて目の前の女生徒に投げかけた。
「あら?最初に好きに呼んでください、って言ったのはおっちゃんじゃない?」
美月は指差していた手を引っ込めて、腕組みをして胸をはる。
まぁ、張るほど豊満なものはもっていないのが残念で、天は二物を与えないの代表例だと、もっぱら男子の話のネタになっていることは、今は黙っていよう。
「そうだが、おっちゃんはないだろう。これでもまだ24歳なんだぞ」
決して、義隆は彼女に注意をしているわけではない。
現に義隆はすでに笑っていた。
このやりとりはクラスの生徒たちとの日常のコミュニケーションの一つだった。
「年齢詐欺もいいところね。でもよかったですね。きっと10年後に同窓会で呼んでも、すぐにおっちゃんだと気づけそうです」
鼻で笑う彼女の口の悪さは、それを遥かに凌ぐ天性の愛嬌が覆い隠す。
大きく一言一言を言う口元からは、八重歯が見え隠れしていて、もし文化祭で演劇の演目をやることになったら、吸血鬼の配役をあてがおう、と内心画策したほど、悪い笑みだ。
最大限の挑発をしたつもりなのか、ご満悦な顔でまるで西洋の貴族令嬢よろしく口元に手をあてて高笑いをしているような仕草も付け加えていた。
コロコロと表情が変わり、今のように最大限相手を挑発している時でさえも、どこかいやらしさがなく、不快な気持ちは微塵も湧いてこない。
「なんだ?同窓会に呼んでくれるなんて嬉しい約束をしてくれるじゃないか」
攻撃したつもりが見事なカウンターを喰らった美月は、一瞬硬直する。
「例えよ、例え」
約束、という言葉に恥ずかしさを覚えたのか、美月は少し頬を染めて、喚くように強調した。
そして、すぐに吹き出すように笑った。
生徒と教師という絶対的な壁はあるが、まるで友人のように。
それは美月に限らずクラスの生徒全員に共通する。
公共の場や、他の目がある場所では、北条義隆を教師として尊重し、あくまでプライベートに近く、今日のように授業や行事などのない場所では砕けた形で話ができる。
そんな関係を、義隆は2-Cのクラス生徒全員と築いていた。
人通り
「絵が描けるんですね」
改めて、美月が言った。
その視線は、義隆にはむけられておらず、水彩画に注がれていた。
「顔に似合わず、な」
美月が飲み込んだ言葉を、義隆は補足するように言った。
義隆自身、絵が描けることは似合わないと思っている。
初めて会う人は、概ねラグビーか野球のキャッチャーをされていましたか?と言ってくるような見た目なのだ。
「まぁそれは」
美月は否定も肯定もせずに、義隆の自嘲を有耶無耶のままにして、絵の方に歩み寄る。
見れば見るほど、綺麗な女性だ。
命を燃やし散華するサクラ吹雪の中で、蒼を基調とした和装の女性は、儚げに散り行く桜の木を見上げている。
「この人、誰かモデルでも…。あ!もしかして先生の婚約者さんですか?」
婚約者というワードも、義隆にお付き合いをしている女性がいるという話は一度も聞いたことがない。
そんな込み入った話をしてきたわけではないが、日常会話の中でそれらしい話や気配すら、義隆にはなかった。
義隆は目を輝かせて振り返る美月をみて、また自嘲気味に笑った。
色恋話に華を咲かせたい、好きや嫌いの話に興味津々の美月は、年齢相応の学生だな、と改めて思った。
「まさか。そんな女性が居たら僕はもっと幸せオーラを出して自慢しているに決まってるだろ」
「なんだつまんない」
明らかに不満そうな美月は、続けて質問する。
「じゃあ、これは誰を描いてるんですか?」
美月は視線をまた、水彩画の女性に戻す。
淡く色付けられた白い肌の色、濃淡を塗り分けることで陰影が浮き上がる銀糸の髪。
リアルな女性のようだが、よくみるとどこか嘘っぽい。
「誰をって、この画にモデルはいないよ」
義隆は流れるような動作で、美月が覗き込んでいる絵に手を伸ばす。
「これは、僕の想像した女性なんだから」
そう言って、もうお終い、と絵を回収する義隆の顔は、いつもの笑顔。
薄く微笑むように笑う顔からは、普段と変わらないようだが。
一瞬だけ、目が合った義隆の目は、哀しげに見えた。
なんとなく、あまり追求するのはいけない気がした。
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