第5話

その空間で息をするのは躊躇われた。


息を殺して抜き足差し足で、忍者の如くこの教室へとやってきたわけではない。

何気ない気持ちで、窓の開いていた空き教室を覗き込む美月は、覗き込んだままの姿勢で、息を飲んだのだ。


唯一の光源である開け放たれた陽光は、まるで光の柱のように、男と男が描く水彩画を薄暗い空間の中から切り抜いていた。


決して、人外の者をみたわけではない。

むしろ、昨年からこの学校の生徒となった美月にとっては、同じく新人教師として赴任してきたその男性教師には親しみさえ持っている。

親しみといっても、それは特別な感情ではないのだが。


おそらくこの学校に通う生徒であれば、多くの生徒が持っている感情のそれと同じ。

自分達と年齢が近く話しやすく、コミュニケーションのハードルが低いことからくる親しみやすさだ。

また美月にとって、一年目は副担任として、入学したばかりの美月や流花のクラスを担当していて、2年に上がった今は、美月たちのクラス担任を担当しているという要素も加わる。


普段は日本史の教師として授業を行なっているその男は、生徒から親しみをこめて『おっちゃん』と呼ばれていた。

年齢にそぐわない老け顔からきているあだ名ではあるが、まるで年末年始にしか会わない陽気な親戚のおじさんのような、細かいことは気にしないおおらかな性格からもきていた。

そんなおっちゃんと呼ばれる教師が、こんなにも真剣に絵を描いているなんて、誰が想像しただろうか。


男の、、、おっちゃんに対して、何か後ろめたい気持ちがあるわけでない。

普段のように、『おっちゃん何してるの?』と生徒と教師の挨拶にはあるまじき軽さで、『これでも一応教師なんだが』と半ば呆れ気味に、自分の威厳のなさに嘆きながらも、挨拶を交わすこともできたはずだ。


しかし、美月はさらなるステルス性を発揮する。


静かに、そして確実に。


自然と呼吸をすることすら忘れ、おっちゃんとの距離を詰める。

そうでもしないと、男はこちらに気づいた時点で、描いている水彩画を隠し、何を描いていたのか教えてくれない気がしたのだ。


単に興味の話だ。

夏休みの人気のない校舎の中で、まるで異空間のような雰囲気を作り出して、日本史の教師が絵を描いている。

そんな今までの日常にはなかったほんの些細な違いが面白く、興味を惹かれたからだ。


あと5歩。

それだけで、美月の手は男の肩に届く。

それだけ近づいても、男は気づかなかった。

教壇側とは反対側。

教室の後ろ側に陣取り、差し込む陽光のギリギリのところに陣取る男の真横に、美月は少し身をかがめた姿勢で抜き足差し足忍び足で近づいていた。


おそらく美月の動きは、普段であれば視界の端で蠢く何か、という風に焦点を合わせるまでは何かとわからないようなもの。

気になれば振り向くし、気にならなければスルーされるような位置関係。

絵を描くことに集中している男には、後者の方であった。


あと3歩。

美月は静かに近づく。

自らの呼吸はもちろんのこと、男もまるで息をしていないように静かだ。

糸で動く操り人形のように、一心不乱に筆を走らせている。

一瞬でも刹那の間であっても、筆を止めればもう描くことができない、とでもいうように、その動きに他者の介入を許さない。


少しだけ生まれるのが早かっただけの、たまたま自分たちのクラスの担任になっただけの、気のいい男の顔を、美月はこれほど近くで見たことはなかった。

24歳とは思えない精悍な顔立ちは、教師というよりも映画でみる海外の特殊部隊の映画にでてきそうだ。

黙っていれば30代半ば、職業は教師ではなく消防士や警察の機動隊です、といえばしっくりくる。


そんな年齢詐称の男は、自分を覗き込む女生徒にはまったく気付く気配がない。

(……真剣ね)

男の横顔を見つめる美月は、声をかけずその真剣な横顔をしばし眺めていた。

ここまで近づいても気づかれないのは、自身の存在感がないのか。

しかし、時に人は集中すると他者を認知しないほど、自分の世界に没頭することがある。

今の男は、まさにその状態なのだろう。


美月は、その原因となっているものに視線を向ける。


そして、また息を呑んだ。


描かれているのは、水彩画。

和服をきた女性が、桜の木の前で立つ姿。

淡く濃淡のあるサクラの花弁は、その命を散らせるかの如く、見上げる女性を置き去りにして散華していた。

女性の装いは、今日の夏空を思わせるほど蒼く、まるで雪のように白い肌の女性の儚さを薄らせる。

白というよりも銀に近い髪は、腰にまで届く銀糸の髪。紅いヘアピンが耳元にかかる髪を結衣あげている。

まるでその一場面を切り抜いた写真のようであるその絵は、水彩画特有の朧気さもあって、この世のものでない恐ろしさのある美しさがあった。


事実、男は何かを模写しているわけではない。

男の前。

窓越しに切り抜かれた夏の空だけがあった。


美月は、絵画に疎い。

普段は漫画やアニメなどは多少読んだり見たりするし、好きな漫画の原画展などがあれば足を運んだりするが、わざわざ美術館などに足を運んで、海外の著名の作家の描いた時価数億もするような油絵などを見に行ったりはしない。


だからだろうか。


男の描く、その女性はどこかアニメや漫画に近く、その絵をみて純粋に美しいと思えたのだ。

「……きれい」

これまで示し合わせたように、静寂を作り出していた空間に、美月の感想が吐露された。

まるで息を吐き出すような声量であったが、それは、彼の筆を止めるには十分であった。

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