第4話

人がいるのが当たり前の空間に、誰もいないというのはそれだけで、まるで異世界に紛れ込んでしまったのかと錯覚してしまう。


階段を登る美月の足音だけが階段ホールに響き、違和感が胸にささやきかける。

窓の空いていた教室は確か3階だったはずだ。


中央棟は、2階に3年生のクラスがあり、3階は視聴覚室や図書館がある。

下駄箱から一番近い場所が3年生に割り当てられ、1年生の教室は東棟の3階という一番離れた場所にある。

新人は走れ、と言わんばかりの教室の配置。

古き良き清風学園の伝統といえば聞こえがいいが、要は新入生への洗礼以外の何者でもない。


3階に近づくと、空気の流れが変わった。

それまで熱気がこもったサウナのようだったが、至る所の廊下の窓が開け放たれていて、海からの潮風が循環している。

暑くこもった空気も消え去り、窓を開けているためか、外の喧騒も聞こえてきていた。


中央棟のほぼ中央にある階段から、左右に教室が広がっている。

風の流れは、右側から感じられた。

誰がいるのかも想像することなく、美月は誘われるように、風の流れの元に向かっていた。


視聴覚室の隣、今では使われていない教室には、少しいたんだ机が積み上げられていて、まるで追い詰められた主人公が逃げ込む袋小路の部屋のようだ。


開け放たれた教室の扉から中を覗き込む。

電気はついておらず、遮光性が高いのか分厚いカーテンが教室の中を薄暗くしていた。


しかし、そんな中。

外から見上げた時と同じ場所。

一つだけ開け放たれた窓から、教室の一角だけ日光が差し込んでいて、窓枠に沿ってできた四角形のひだまりが形成されていた。


美月は目を瞬かせる。

暑さにやられてしまったのか、と目を擦ってもう一度、教室の中を覗き込んだ。


薄暗い教室の中に、まるで結界でもはるかのように差し込む陽光。

その中で、木製のイーゼルにB2サイズのマーメイド紙に筆を走らせる男がいたからだ。


短く切り整えられた頭髪は、朝の準備がめんどくさいからと寝癖がつかないギリギリの長さ。

すらりとした長身は、姿勢正しく丸椅子の上に収まり、シワのないワイシャツに黒のスーツパンツ姿。

窓から差し込む陽光を正面にして、男は静かに、でも迷いなく筆を走らせていた。

その横顔は、普段の砕けた表情からはみせない真剣そのもの。

きっと彼は、B2サイズのマーメイド紙に筆を走らせることで、画と会話していたのだ。



少し時間は巻き戻る。



男は、薄暗い教室から窓の外をみていた。

分厚いカーテンに遮られた陽の光は、男の前の窓から差し込む以外ない。

廊下側の窓はスモークガラスであり、廊下側からの光も80パーセント遮光する。


浜風が吹き込む中央棟は、心地いい風が吹き込んできている。

まるでスクリーンのように切り抜かれた窓からは夏の空が見え、遥か遠くには山脈のように大きく立派な雲がある。

部活の生徒の声に蝉の鳴き声が重なった夏のオーケストラが日常を忘れさせてくれる。


男はこの学校の教師だ。

昨年赴任してきたばかりの新人教師。

教師を2年目ともなると、それなりに要領を得るようになる。

初めの頃は、学生よりも遥かに早くに出勤して、授業の準備や連絡事項の確認、正門で通学する生徒のお出迎えに追われ、放課後は明日の授業の予習にプリント作り、そして部活動に華を咲かせる学生たちが帰るのを見送る生活。

仕事の忙しさに忙殺されていたものだ。


(……今も変わらないか)

ため息混じりに漏れる言葉は、皮肉が大いに込められている。

奇跡的にまだ部活動の顧問をしておらず、夏休みに学校にきたのは、部活のためではない。

学生が長期休暇とはいえ、教師が休みになるわけでない。

研修もあれば、今日のような当直が割り当てられる。

当直という宿直当番など、勤務時間外の学校での待機業務があったが、今ではほぼ全ての学校で廃止されているが。。

清風学園では、部活動が盛んで、今日のような学生が休みの日でも、学校には部活動に勤しむ学生が多くいた。

それらを顧問一人が監督するには、限度があり、また急な連絡などは学校に入ることもある。

その為、学校には常に、部活動とは関係のない教員か用務員のスタッフが常駐することになっていた。


男は、部活動の顧問をしているわけでもなく、結婚をして家庭があるわけでもない。

そうなると、自然と当直の割り当てが多くなる傾向にある。

まぁ実際のところは、自宅にいてもやることがあるわけでもないので、自ら率先して当直の割り当てを多くしてもらったのだ。


なぜ職員室におらず、3階のこんな教室にいるのか。

当直は二人交代制であり、8時から12時までの午前直と12時から17時までの午後直に分かれているためだ。

男は自身の当番であった午前直の職務を終えていて、今は自由な時間である。


潮風が吹き抜け、重いカーテンをたなびかせる。

年齢の割には老け顔。よく言えば精悍な顔立ちをした男は、先ほどまで座っていた丸椅子へと戻った。

木製のイーゼルにはB2サイズのマーメイド紙。

側の机には木製パレットがあり、48色分の絵の具と、数種類の筆が入ったスケッチセットケース。

長年使い続けていることもあり、木製のそのスケッチセットケースは角が削れている。表面には無数の傷があり、定期的に手入れをしているが年季は隠しきれない。


先ほどまで無心で描いていた絵の続きを、男は描き始めた。

窓から見える風景を描いているわけではなく、部屋を暗くしているのも、特に意味があるわけでもない。

ただその方が集中しやすいためだった。

一方向からの光、窓から離れれば外の喧騒は不思議とその音量を下げて、よいBGMとなる。


男は、筆を走らせる。

この時ばかりは、仕事の疲れも、悩みも何も感じない。

想像の中の彼女光景を絵に落とし込む。


艶やかな髪に、切長の瞳。

生まれつき色素の薄く、雪のように白い彼女には雪が似合うが、桜が好きだと言ったから、桜吹雪を背景に。

想像の中の彼女光景は、優しい笑みを浮かべている。


男は自分の世界に没頭していた。


だから男は、後ろからやってきた女生徒には、気づいていなかった。

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