萌草文化考古学研究室
石原宙
前編
『なぜ令和人は令和ちゃんをつくったのか』
ゼミ室のホワイトボードに黒のマジックが走る。
ここは、東古大学嵐山考古学研究室。
パイプ椅子に3人のゼミ生が座っていた。
端正な字を書いたのは、蔵永アカシ。嵐山ゼミの3年生。
端正な顔立ちで、大人びた銀縁の眼鏡にフォーマルなジャケット姿が板についていた。
蔵永のジャケットの胸ポケットには、2010年頃の作品といわれている女児向けアニメ『魔法少女プティキュア』のフィギュア――プティキグナスが、一輪の花のように挿さっていた。
これは蔵永のトレードマーク。
ゼミの1年生、観野シズクは、その雄姿をうっとりした顔で見つめていた。
――やっぱりかっこいいなぁ、蔵永先輩……!
彼女は蔵永に惚れていた。
彼をひと目見た時、体に電流が走るというのはこういうことかと理解した。
彼の才能や人間性が魅力的なのはもちろんだが、何よりまずは顔面に胸を撃ち抜かれた。
愛する『推し』と瓜二つだったからだ。
シズクの推しとは、『萌草時代』中期の覇権ソシャゲ『戦刃男子』の人気キャラ『草薙くん(草薙剣)』である。
『萌草(ほうそう)時代』とは、西暦2000年を中心とする前後約50年にわたるおよそ100年間のことで、その時代のサブカルチャーの、とくにアニメや漫画、ゲームなどの二次元的文化を『萌草文化』と呼ぶ。
いわば奈良時代の天平文化や、平安時代の国風文化に当たるもの。
その文化を専門に研究するのが『萌草考古学』であり、このゼミの研究テーマだった。
ちなみに『萌草』という名称は、その文化に親しんだ人々が使った文章に『萌え』『草』という言葉が頻出したことに由来する。
「つまり今回のテーマは『擬人化』ということね」
3年の冷清水ニカが優雅に紅茶を傾けつつ言った。
蔵永に次ぐ俊英、大学きっての麗人だった。
所作が上品で、声質も冬の小川のように澄んでおり、どんな普通のことを言っていても、すごく高尚なことを言っているような気がする。
「詳細キボンヌ」
冷清水の不意の一言に、ついブッ! と、シズクは飲んでいたお茶を吹き出した。
「どうしたかしら。観野さん」
「いえ、なんでも……」
なぜ吹き出したかと言えば、冷清水が高級フランス人形みたいな綺麗な顔でおかしなことを言うからだ。
冷清水の専門は萌草言語学。つまり旧時代のオタク言葉を研究している。
だから突然しょうもないネットスラングを涼しげな顔で口にする。
シズクが研究発表をしている時など、真顔で「wktk」とか「マ?」などと言ってくるし、この間は遅れてゼミ室へやって来て「今北産業」などと言い出したから正気ではいられなかった。
「フ……相変わらず冷清水はウィットに富んでるな」
「お褒めに与り光栄ね」
しかもこの界隈では、こうした古いオタク言葉を使うとちょっとオシャレみたいな扱いをされるので身が持たない。
「じゃあ蔵永くん。続きオナシャス」
「ブフッ!」
「おい、観野」
「す、すみません……」
身が持たない。
その理由――シズクはいわゆる『転生者』だった。
元の名は佐々木灯。アカシたちが研究している萌草時代のまっただ中を生きた、25歳のOLだった。
シズクの記憶が正しければ、2028年の冬。コミケに向かう途中で不思議な光に襲われた。
空間がゆがみ、悲鳴が聞こえて――再び目を覚ましたときにはこの時代にいた。
佐々木灯としてではなく、交通事故で何カ月も昏睡状態にあった、観野シズクという女子大学生として。
どれだけ医師や家族に説明しても、彼女が約500年前に生きた人間だということは信じてもらえず、事故による記憶の混濁と扱われた。
そして、今に至るというわけだ。
素直に蔵永たちにそのことを話すこともできる。しかし蔵永は超のつく現実主義者だ。
医者にも家族にも信じてもらえなかった世迷い言を蔵永に話して、愛想を尽かされることがシズクは怖かった。
蔵永は続けた。
「萌草文化の人間は貪欲だった。世界中のあらゆるものを美少女、あるいは美少年化する勢いで擬人化を進めた」
「不思議な慣習よね。艦船や銃器、国や企業まで。まるで何かに取り憑かれたようだった。こうした運動について蔵永くんの考えは?」
「宗教的なものだと考える」
「なるほどね」
「平成後期から令和にかけて、経済危機や戦争、疫病の流行など不安定な社会情勢が続いた。そこで人々は、藁をもつかむ思いで神に助けを求めたんだろう」
「擬人化は偶像崇拝のようなものだったと?」
「そう考える」
――もっともらしいけどぜんぜん違う!
シズクは叫び出したくなるのを必死に抑える。
これが嵐山考古学研究室の日常だった。
◆
翌日。
地割れであちこちに断裂が走る池袋廃墟群。
看板には『A級遺跡 池袋廃墟群 発掘調査プロジェクト』とあった。
シズクは物々しい発掘現場の雰囲気に委縮しながら、隣のアカシに不安を漏らす。
「あの、私も参加させてもらって良かったんでしょうか? A級遺跡って、国指定の重要遺跡で、特別な資格を持つ考古学者じゃないと発掘に参加できない聖域じゃ……」
「ああ。俺の推薦で入れてもらった。お前の直観は鋭い時があるからな」
蔵永は、胸に挿したプティキグナスのフィギュアを指さして。
「キグナスの復元時もお前の助言が役立った。まるで元の形を知っていたかのような見事な指摘だった」
「あ、はは……」
それは本当に知ってただけだなんて言えない。プティキュアは好きで、大人になっても見ていたから。
でもやりすぎないようにしなきゃと、シズクは自戒する。
自分が過去からタイプスリップして来た転生者だなんて言ったら、憧れの先輩に頭がおかしいやつと思われてしまう。
「では始めよう。今日は王墓の発掘だ!」
蔵永が王墓と呼んだ場所。それは朽ちかけた9階建鉄筋コンクリート造の建物だった。
あちこちが古びて何本もの蔦が絡まっている。
「王墓って……」
シズクはこの場所は知っている。ここはどう見ても。
――ハニメイト池袋本店!?
有名アニメグッズ専門店だった。
◆
シズクは蔵永の後について、旧跡・ハニメイト池袋本店の階段を上る。
「あ、あの……どうしてここが王墓なんです?」
こわごわと、心許ない足下に気をつけながら尋ねるシズク。
約500年の時がたち、鉄筋コンクリート造の建物も、かなり腐朽が進んでいた。
「む? 見ればわかるだろう」
4Fに到達し、蔵永と2人でフロアを見渡した。
蔵永は腰をかがめると、かすかに印刷の残るアクリルキーホルダーや陽に焼けて原形を留めないぬいぐるみを手にし、確信を持ってシズクに言った。
「この大量の副葬品……このビル全体が名のある大君を祀った墓に違いない!」
――いやいや待って!
こういう時、本当にこの人が天才なのかと疑ってしまう。
500年も時を経れば、人の認識もこれほど隔絶したものになってしまうのか。
かつてのオタクグッズショップも、この時代ではまさかの王墓となる。
シズクはため息をつきつつ、壁を埋め尽くす本棚を眺めた。
ここは主に書籍を販売するフロアだったようだ。
壁の本棚から、一冊のコミックを手にとった。
「あ……」
触れたとたんカバーや帯がパリパリ剥がれ、ぽろぽろと本が崩れ落ちる。
インクも解読不可能なほどに薄くなっていた。
長い時がたち、コミックや雑誌は黄変、腐食、分解されてしまい、ほとんど読むことはできなくなっていた。
「悲しいわね」
シズクの隣にやって来たのは冷清水。彼女も今回の発掘に参加していた。
「漫画に多く使われたコミック紙は酸性紙。その寿命はせいぜい数十年。これは本当に貴重な文化の喪失よ」
「……そうですね」
かつて夢中になって読んだ漫画たちは、今はもう読むことができない。
乙女心を刺激する後宮漫画も、胸を熱くするバトルと友情の少年漫画も。
寂しさがこみ上げてきて、シズクは下唇を噛む。
あまりにも長い時間が、歴史も文化も断ち切ってしまった。
考古学とは、その途切れた時間を繋ぎ合わせる、歴史の縫合作業だ。
「だけどね」
冷清水は、そう言って別の本を手に取った。
一枚一枚の紙に厚さのある、けれど全体に薄い本だった。
「改良された中性紙を使ったものなら、保存状態がよければ数百年もつわ。この『ドージンシ』みたいなね」
同人誌の一部のものは、趣味性が高いせいか特別な紙を使うことが多く、そのために原型を残すものがあった。
冷清水は、愛おしむようにその薄い本を見つめた。
過激なBL同人誌だった。
それはそんな優しい目を向けるような内容じゃないのでは、となんだかドキドキしてしまうシズクだが、下手なことは言うまいと自粛する。
その時だ。
背後から、ジャリ、と固い靴底が石片を踏む音がした。
「これはこれは。蔵永クンじゃないですか?」
振り返ると、一人の男が立っていた。
発掘現場だというのに仕立てのいいスーツを着て、きれいに整えたブロンドの髪をまったく荒れていない指で流す男。
国立考古学研究センター所属の26歳、紫藤・スチュアート・玲。
「きみはまだ萌草文化なんて研究しているのか?」
いつも通りのイヤミな口調。
蔵永は表情を変えず応対する。
「何かいけなかったでしょうか」
「はっ! 今の考古学のメインストリームはウェイカルチャーさ。ヲタカルチャーなんてダメダメ!」
『ウェイカルチャー』とは、『萌草文化(ヲタカルチャー)』の対抗文化で、クラブ、パーティ、BBQなどいわゆる陽キャ文化のことを指す。
紫藤は、萌草文化の対抗文化である陽キャ文化の研究を主にしており、萌草文化を下等な研究分野と言って日頃から腐していた。
キッと目つきを鋭くするシズクだが、蔵永は冷静だ。
「人の営む文化に貴賤はない。考古学者としての姿勢を疑いますよ」
「文化を精査し、正しく評価するのも考古学者の仕事さ」
ニヤニヤと口の端を緩める紫藤。それをまっすぐ見つめる蔵永。
二人の間で火花が散る。
「相変わらずね。あの二人」
呆れ混じりに冷清水が言った。
エリート中のエリートであり、人一倍プライドの高い紫藤にとって、若くして才能を認められている蔵永は目障りで仕方がないのだろう。
いつも蔵永を見るなりこうして突っかかってくる。
けれど、シズクはこの男の本性を知っていた。
シズクは、じっと紫藤を見つめる。具体的には右腕を見つめる。
あんなことを言いながらこの男――
紫藤のスーツの右腕はなぜか肩から荒々しく破られ、包帯がぐるぐる巻きにされていた。
冷清水が尋ねる。
「ところで紫藤さん。その右腕の包帯は?」
「ああ……発掘作業中に少々ケガをね」
「じゃあ、その右目の眼帯は?」
「これは闇の封い……いや、遺物の復元作業で目を使いすぎてね」
「そう」
――絶対中二病じゃん!
紫藤は重度の中二病だった。
しかし、幸か不幸か、この時代に中二病という概念は引き継がれていなかった。
長い歴史のどこかで、中二病という概念が断絶してしまったのだ。
ゆえに、彼がどれだけ痛くても、それを誰も認識できない。シズク以外は。
そこへ、紫藤の部下所員が彼を呼びにやってきた。
「紫藤さん。工事業者が呼んでいます」
「ああ、すぐ行く」
「工事業者?」
反応したのは蔵永だ。
「言っていなかったか? すぐそこ、商業施設の建築工事が途中だっただろう。進める許可を出したんだ」
「ちょっと待ってください! あそこは貴重な遺跡ですよ!」
シズクは気になって、隣の冷清水に尋ねる。
「どこのことですか?」
「中池袋公園よ」
「え……?」
通称『野生のハニメイト』。そこはシズクの思い出の場所だった。
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