第6話 デート

 太陽が高く昇る昼下がり、菊子さんは都会の繁華街にある本屋へと足を運んでいた。その手には、淡いピンク色のエンディングノートがぎゅっと握られている。彼女の足元を軽やかに跳ねるのは、皆が知る、動くエンディングノート。表紙が日差しを反射し、その姿は不気味で愛らしい。


 周囲の人々の目は次第に、その二人に釘付けとなる。特に若いカップルや家族連れの子供たちが、その不思議な光景に目を輝かせていた。そして、あっという間に、数多くのスマホが二人の方向に向けられる。シャッター音が次々と鳴り響き、彼らの姿はデジタルの中に刻まれていく。


 菊子さんは、その注目の中心となることに少し照れくさい表情を浮かべながらも、心の中では実は嬉しかった。「あなたといると、私までカメラを向けられるから、何だか嬉しくなるわ」と、声に出しては言わないけれど、その瞳の輝きが彼女の気持ちを物語っていた。


 エンディングノートは、菊子さんの気持ちを察知するかのように、彼女を市内の人気スポットに連れていく。歴史的建築物の前や、美しい公園のベンチ。そして夕日が映えるビーチなど、どの場所でも二人は目立つ存在となり、多くの人々に囲まれることとなった。


 そして、その度に菊子さんの笑顔は輝きを増していき、彼女の孤独が少しずつ癒されていくのが見て取れた。菊子さんとエンディングノートの特別な一日は、多くの人々に目撃された。



 夜の帳が下り、菊子さんの部屋には静寂が流れていた。ただ一つ、部屋の隅で小さく灯るパソコンの画面が彼女の顔を照らしている。その画面には、昼間の街中で撮影された菊子さんと動くエンディングノートの姿が映し出されていた。


 SNSサイトには、次々と菊子さんとエンディングノートの写真や動画がアップロードされ、それに対するコメントやリアクションが、数えきれないほど付いていた。「このおばあちゃん、素敵!」や「エンディングノートと一緒にいる姿が微笑ましい」といったコメントが並び、菊子さんの心は暖かさで満たされていった。


 エンディングノートも菊子さんの隣で、彼女の反応を、じっと見つめている。菊子さんが笑顔になるたびに、エンディングノートは小さく飛び跳ねて、喜びを示していた。


 そして、画面の隣には、新たに購入したピンク色のエンディングノートが開かれている。ペンを手に取った菊子さんは、深い息をつきながら、自分の名前を丁寧に書き込んだ。


 彼女の人生は、多くの出来事や感情、経験で溢れていた。しかし、そのページには彼女の人生のエピソードを詳細に書き記すのではなく、意図的に大きな余白が残されていた。それは、まだ終わっていない彼女の物語、これから先に織りなすであろう、新たな経験や冒険のためのスペースだった。


 エンディングノートが、ゆっくりと彼女の前に近づき、その大きな余白の部分を指でなぞるように触れた。そのシンプルな動きは、菊子さんの決意や期待、そして新たな人生の章への前向きな気持ちを、静かに後押ししているようだった。



 朝の光が、窓を通して部屋に射し込んだ。菊子さんはベッドから、ゆっくりと起き上がり、伸びをしてからカーテンを開けた。すると、予想もしない光景が彼女の目の前に広がっていた。数えきれないほどのカメラを構えた人々が、彼女の家の周りに群がっていた。


 エンディングノートは、窓のそばで、外に出して欲しいというアピールを強くしていた。菊子さんの方を向いて何度も飛び跳ねながら、その意志を彼女に伝えていた。


 菊子さんは窓を見ながら、心の中で深く葛藤していた。彼女はエンディングノートとの時間を、とても大切に思っていた。彼との日々は、彼女の日常に新しい色をもたらしていた。しかし、今の状況を見る限り、エンディングノートが彼女のもとにいることで、多くの人々が彼女の家を訪れることとなり、彼女自身のプライバシーが侵害される可能性もあった。


 エンディングノートが、窓から離れて玄関の方へと進んでいく。彼は迷うことなく、玄関の扉を開け、堂々と外へ出ていった。そして、大きなジャンプで人だかりを飛び越え、遠くへと、ぴょんぴょんと跳ねて去っていく姿が見えた。人々は驚きの声を上げながら、エンディングノートの後を追いかけて行った。


 菊子さんは玄関に立ち尽くし、去っていくエンディングノートの背中を、しばらく見つめていた。そして、彼の去った後、彼女は深く息を吸い、ゆっくりと家の中へと戻った。リビングに戻ると、彼女はソファに座り込み、しばらくの間、無言で部屋の中を見渡していた。


 彼女の目には、涙が浮かんでいた。しかし、それは悲しみだけでなく、エンディングノートと過ごした時間への感謝や、彼の新たな旅路を応援する気持ちも含まれていた。菊子さんは、自分の心の中に、新たなページが開いたことを感じていた。そして、自分のエンディングノートを開き、この出来事を書き始めた。



 朝の静かな町並みの中、菊子さんは近所の商店街に買い物に出かけた。普段のように、買い物リストを手に、お気に入りの店を回るつもりだった。しかし、今日の商店街は、彼女にとって普段とは少し違った雰囲気を持っていた。


 エンディングノートとの動画や写真がネット上で拡散されたことで、菊子さんは知らず知らずのうちに、ちょっとした有名人となってしまっていた。野菜を選んでいる最中や、魚屋さんで新鮮な魚を指で指し示していると、近くで「あれ、菊子さんじゃない?」という声が聞こえてきたり、通りすがりの人々がスマホで、こっそりと写真を撮っているのを感じたりした。


 初めは、どこへ行っても注目の的となり、どこか緊張感を持って買い物をしていた菊子さん。時々、不意に背後から声をかけられて、びっくりして振り返ることもある。しかし、声をかけてくる人々の中には、彼女とエンディングノートの話を楽しそうにしている子供や、彼女の経験に共感する年配の方々も多かった。


 ある時、菊子さんは、小さな子供に手を引かれ、「おばあちゃん、エンディングノート、どこにいるの?」と尋ねられた。その純粋な瞳を見て、菊子さんは微笑み、彼が旅を続けていることを伝えた。そして、商店街の中で次第に、彼女は他者とのコミュニケーションの楽しさを再発見していった。


 人々との会話の中で、菊子さんは自分の人生経験やエンディングノートとの思い出、未来への期待を共有することで、新たな繋がりを感じるようになった。孤独だった日々から、コミュニティの一部としての存在を再確認する日々になっていった。


 商店街を歩きながら、菊子さんは、心の中でエンディングノートに感謝した。



 夕暮れの暖かい光がリビングを照らし、結衣と翔太の姿がテーブルに映し出されていた。二人の子どもたちだけでの夕食は、少し寂しいが、もう慣れてきた。


 結衣は炊きたてのご飯と、自分で作った簡単なおかずを翔太に盛りつけながら、「美味しいかな?」と微笑んだ。翔太も、お姉ちゃんの手料理に期待を膨らませながら、お箸を手に取った。


 その時、結衣のスマホが振動し、画面には「お母さん」という名前が表示されていた。翔太を見つめながら、結衣は迷いなく電話に出た。「もしもし、お母さん?」


「結衣、ごめん。おじいちゃんの容体が急変したの。こっちに来れるように準備しておいてね?」


 結衣の顔が、青ざめた。翔太も無言のうちに、その電話の内容を察した。結衣は、お母さんからの電話を切ると、翔太に向かって「おじいちゃんが……」と言いかけるも、言葉が詰まった。


 結衣は、あるアイデアを思いついた。「エンディングノートに戻ってきてもらえないかな?」と、思いを込めてSNSに投稿した。


 瞬く間に、その投稿は拡散され、たくさんのコメントが寄せられた。「エンディングノートを見つけたら連絡するね」「応援してるよ」「おじいちゃん、頑張って!」と、暖かい言葉で支えてくれる人々が多かった。しかし、中には「エンディングノートを捕まえて、力づくでも連れ戻せ!」といった過激なコメントも増えてきた。


 結衣は、心からの願いを込めた投稿が、こんな風に受け取られるとは思ってもいなかった。翔太は結衣の肩をポンと叩き、「大丈夫、お姉ちゃん。みんな、おじいちゃんを助けたいと思ってるんだよ」と励ました。

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