第5話 独居老人

 病院の静かな廊下を歩いてきた達也は、少し緊張しながら涼子の病室のドアをノックした。ドアがゆっくり開かれると、ベッドに座っていた涼子が、微笑んで彼を迎えた。


「達也、来てくれたのね」と涼子が声をかけると、達也は小さくうなずき、鞄から新品のエンディングノートを取り出した。「これ、見て」と、達也は照れくさい笑顔を浮かべながら、涼子に手渡した。


 涼子が、驚きの眼差しでエンディングノートの表紙を撫でると、「なんで、これを?」と疑問の声を漏らした。達也は、言葉を選びながら答えた。「あのエンディングノートに出会って、何か自分も考えなきゃいけないと感じたんだ」


 涼子は目を細めながら、達也の真剣な表情を見つめた。「でも、まだまだ若いのに、なんでこんなこと考えるの?」と彼女が問うと、達也は穏やかに答えた。「確かに、まだまだ先のことだと思うけど、もしものことがあったとき、君や赤ちゃんが困らないようにしたいんだ」


 涼子の目には、じわじわと涙が浮かんできた。彼女は、しばらく無言で達也を見つめた後、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。「ありがとう、達也。こんなに真剣に家族のことを考えてくれて。でも、無理しないでね?」


 達也は、力強くうなずいた。「大丈夫。ただ、これからはもっと家族を大切に、一生懸命に生きていく。それを、このエンディングノートに誓うんだ」


 涼子は優しく達也の手を握り、二人は静かに未来への誓いを交わした。



 夜のリビング。家族は、テレビの前に集まっていた。結衣と翔太は画面に映る、おじいちゃんのエンディングノートが活躍する動画を、楽しそうに見つめていた。おじいちゃんが元気に動き回っている姿は、彼らにとって嬉しくもあり、希望を感じさせるものだった。


 しかし、お母さんは心配そうな表情を隠せずに言った。「おじいちゃんのエンディングノートが戻ってこないと、これからのこと、葬式のことや遺産のこと、どうするのか考えないといけないのよね」


 お父さんも、続いた。「そうだな。旅なんてしてないで、戻ってきて欲しい」


 結衣は顔を上げ、ふっと笑った。「でも、おじいちゃんが元気に動き回ってる姿、見てると楽しいよね。もうちょっとだけ、活躍してほしいな」


 翔太も「うん。僕も、そう思う。おじいちゃん、まだまだ頑張れるんだから!」


 お母さんは、少し困ったように結衣と翔太を見つめた。「分かってる。おじいちゃんが楽しそうで嬉しいのは。でも大人として、これからのことも考えないといけないの」


 お父さんは、腕を組んで考え込む。


 この夜の家族の会話は、結論が出なかったが、おじいちゃんの存在の大きさだけは分かった。



 日差しの中、エンディングノートは、ぴょんぴょんと明るく住宅街を歩んでいた。そのとき、突如として、エンジンの音が耳を打つ。角から、フルフェイスのヘルメットをかぶった男が、小型のバイクに乗って現れる。彼の目的は、少し先に歩いていた、白髪を束ねた優雅な老婦人、菊子さんだった。


 瞬く間に、犯人は菊子さんのハンドバッグを引ったくり、アクセルを全開にした。しかし、その瞬間、エンディングノートが彼の動きに反応した。バイクに負けない猛スピードで飛び跳ねて、犯人を追いかける。犯人とエンディングノートは、住宅街の狭い路地や車の流れる道を縫うように追跡劇を繰り広げた。


 犯人は驚きのあまり、ハンドルを握りしめながら、後ろのミラーに目をやる。そのミラーに映ったのは、迫ってくるエンディングノートの姿だった。恐怖に打ち震える犯人は、ついにハンドバッグを高く空中に放り投げる。その瞬間、エンディングノートがジャンプして、空中で軽やかにバッグをキャッチした。


 エンディングノートは、持っていたハンドバッグを確認すると、ぴょんぴょんと跳ねながら、元きた道を急いで戻り始める。途中で止まることなく、やがて涙ぐんで立っている菊子さんの姿が目の前に現れた。エンディングノートは、ハンドバッグを彼女の前にそっと置いた。


 菊子さんは、そのハンドバッグを受け取りながら、エンディングノートに深く頭を下げて感謝の言葉を述べた。その場面を目の当たりにした近所の人々は、心からの称賛の声を上げた。



 菊子さんの家は、清潔感はあるものの、どこか孤独感も漂っていた。エンディングノートをリビングに招き入れたとたん、家の固定電話が鳴った。手元の時計を見ると、まさにセールスの電話がかかってくる時間帯だ。


「もしもし?」と、菊子さんは電話に出ると、話している相手の声は、こちら側からも聞こえるほどの大きさだった。どうやらセールスの電話のようで、菊子さんの顔色が一変する。


「何度も言ってるでしょう? こんなもの要らないって! 何でわかんないのよ!」と、彼女の声は次第に大きくなり、言葉の端々に辛辣さが増していった。エンディングノートは、その場にいるだけで気まずさを感じた。彼は、こんな菊子さんの一面に驚いた。


「もう二度とかけてこないで!」と、菊子さんは最後に一言、鋭く言い放ち、受話器をガチャリと切った。


 しばらくの沈黙の後、菊子さんはまるで別人のように穏やかな笑顔を取り戻し、エンディングノートに向かって「あら、驚かせてしまったかしら? 最近、よくそういう電話がかかってくるのよ。ほんと、困っちゃうわ」と軽く笑った。


 エンディングノートは、彼女のその変わりように驚きつつも、菊子さんの一人暮らしの孤独や、外界とのコミュニケーションの難しさを感じ取ることができた。菊子さんの、この一面から彼は、その心の中にある繊細さや孤独感を感じ取った。



 キッチンに入ると、菊子さんはエンディングノートを指差し、「私の得意な鯖の味噌煮を作るからね。ほら、手伝って」と言いながら材料を取り出し始めた。エンディングノートは、菊子さんの横に飛び跳ねて位置を取り、キッチンでのお手伝いを始めた。


 鯖の下ごしらえや野菜の切り方を見ながら、エンディングノートは時々、菊子さんの動きに合わせて小さく飛び跳ね、楽しげにリアクションをした。


 鯖の味噌煮、サラダ、そして温かいご飯がテーブルに並んだとき、エンディングノートは高く跳ねて喜びを表現した。菊子さんは手作りの梅干しも取り出して、ご飯の隣に添えた。


「さて、エンディングノートくん。食事の仕方を見せて?」と、菊子さんが興味津々の様子で尋ねる。エンディングノートは、少し迷ったようだったが、ページを開いて鯖の味噌煮に近づくと、その料理はページの中に吸い込まれるように消えていった。


「ほんとに食べられるんだ!」と菊子さんが驚き、エンディングノートは小さく跳ねて応えた。


 その不思議な光景を目の当たりにした菊子さんは、目をキラキラさせながらエンディングノートに感謝の意を示し、楽しげに自分の皿にも料理を盛り、食事を始めた。そのときの彼女の表情は、孤独感や苛立ちが嘘のように消えて、温かくて優しいものになっていた。

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