第4話 悩む妊婦

 深い夜の静けさが、古びた木造アパートを包み込んでいた。部屋の中では、窓際の照明の下で、妊娠8ヶ月の涼子が家計簿を開き、深いため息をついていた。ページには、赤ちゃんの必需品や今後の生活費について、緻密に計算された数字が並んでいた。涼子の顔には、不安と期待が入り混じった表情が浮かんでいた。


 ドアの開閉の音と共に、夫の達也が帰宅した。コートをずるっと脱ぎ捨てると、疲れたようにソファに身体を沈めた。彼は、すぐさまスマホを取り出し、指先はゲームのアイコンをタップした。その次の瞬間、部屋にはゲーム内で特定のアイテムを購入する際に流れる、特有の効果音が響いた。


 涼子は夫に向かって、困った顔で言った。「達也。またゲームに課金してるの? もうすぐ赤ちゃんが生まれるんだから、そろそろ真面目に家計のことを考えてくれない?」


 達也はゲーム画面から目を離さず、「今回だけだよ。ちょっと欲しいアイテムがあってさ」と、なんとなくの言い訳を口にした。


「今回だけ、って何回目なの?」涼子の声には、焦りと失望が滲んでいた。「この家計簿を見て? これ以上、無駄遣いする余裕はないの!」


 しかし、達也の頭の中はゲームの世界。彼女の言葉は、風のように彼の耳を通り過ぎていった。ソファにもたれかかりながら、彼は次のステージに挑戦するボタンをポチっと押した。



 公園の中心にあるベンチに、日向ぼっこを楽しむ涼子の姿があった。彼女の顔には、穏やかな笑顔が浮かび、心地よい日差しを感じながら、目を閉じていた。しかし、突然の痛みに彼女の表情は険しくなり、産気づいた涼子は、驚きと慌てでベンチに横たわった。


 そのとき、不思議な光景が繰り広げられた。ぴょんぴょんと軽快に跳ねるエンディングノートが、涼子の目の前に現れた。古びた表紙は、何か伝えたいことがあるかのように涼子を見つめていた。


 エンディングノートは何かを探しているかのように、しきりに周囲を見渡し、すぐにその場を去ってしまった。涼子は、苦しみながらも、その奇妙な光景に目を奪われていた。


 しばらくすると、エンディングノートが戻ってきた。しかし、今度はエンディングノートをスマホのカメラで追いかけてくる、若者たちのグループが現れた。動画を撮影しながら盛り上がっている彼らだったが、涼子の姿を見つけると、驚きと慌ての表情に変わった。


「大丈夫ですか!?」と一人の女性が叫び、彼女は直ぐにスマホのカメラから通話モードに切り替え、救急車を呼んでくれた。他の女性たちも、涼子を囲んで必死に彼女の安否を確認し、励ましの言葉をかけてきた。


 その間も、エンディングノートは何か役立つことはないかと、うろうろと公園内を跳ね回る。


 公園の中は、涼子の安否を心配する人々と、謎のエンディングノートに興味津々の人々で賑わっていた。



 緊急のサイレン音と共に、救急車が公園に到着した。涼子は救急隊員に支えられながら、車内に運び込まれた。その後ろ姿を静かに追う形で、エンディングノートも、ぴょんぴょんと跳ねながら車内へと入っていった。その様子は妙に自然で、まるで日常の一部であるかのように受け入れられた。


 救急車の中は、緊迫した雰囲気に包まれていたが、救急隊員たちは涼子の安全を第一に、冷静に対応していた。エンディングノートは涼子の横で、無言で彼女の手を握っているようなポーズをとっていた。エンディングノートは、涼子の出産を何よりも願っているようだった。


 病院への到着後、涼子は、すぐに分娩室へと運ばれた。出産の準備を進める医師や看護師たちも、エンディングノートの存在に特に驚くこともなく、それぞれの仕事に集中していた。分娩室の中には、涼子の安産を祈る、静かな気持ちで満ちていた。


 しばらくすると、息を切らして夫の達也が駆け込んできた。彼の瞳は涼子への心配と期待で、いっぱいだった。そして、エンディングノートの存在にも驚かず、ただ涼子を励まし続けた。


 時間は、ゆっくりと進み、やがて小さな産声が部屋に響いた。早産ではあったものの、無事に新しい命が誕生した。その瞬間、部屋の中は涙と笑顔で溢れた。達也は涼子と新生児を優しく抱きしめ、その喜びを共有する医師や看護師たち。そして、その中に混ざる形で、エンディングノートも新しい命の誕生を見守っていた。



 公園での出来事が捉えられた動画が、インターネットにアップロードされるやいなや、あっという間に話題となった。その動画のタイトルは「エンディングノートが現実で妊婦を助ける」という、シンプルなものだった。


 今までネット上では、エンディングノートのフェイク動画が数多く出回り、多くの人々がそのコミカルさを笑っていた。しかし、この動画は違った。これは、感動的な出来事を映し出していたからだ。


「エンディングノートが動くだなんて、信じられるのか」という疑問の声も当然あったが、多くの人々は涼子や達也、そして医師や看護師たちの真剣な様子を見て、この動画が本物であることを確信した。コメント欄は瞬く間に盛り上がり、エンディングノートの勇敢な行動を讃える声で埋め尽くされた。


「こんな動画、初めて見た!」


「エンディングノート、私も欲しい!」


「エンディングノートは、真のヒーローだ!」


 病院を出て再び、ぴょんぴょんと跳ねながら旅を続けるエンディングノートの前には、スマホのカメラを構える人々だけでなく、彼を褒め称えるような声をかける人々も現れた。


 この一件でエンディングノートの存在は、より多くの人々に知られることとなった。



 公園での出来事が話題となり、達也の周りでも、エンディングノートについての話題が尽きなかった。彼の通勤途中。隣の席の人。ランチタイムのカフェでの隣のテーブル。さらには仕事先でも。人々はエンディングノートの勇敢な行動について話し、達也からの感謝の言葉を聞きたがった。


「達也さん。あのエンディングノートは偉かったよね!」と、どこからともなく感謝の言葉を求められた。しかし、達也はエンディングノートとは一体何なのか、そこからして知らなかった。彼にとって、それはただ涼子を助けてくれた、謎の存在に過ぎなかったのだ。


 彼はスマホを手に取り、「エンディングノート」というキーワードで検索を開始した。そして、以下のような説明を見つけた。


「エンディングノートとは、人生の最後の時を迎える際に残す、手記や手続きの手引きのことを指す。生命の終末に関する希望や意向、葬儀や相続に関する手続き、そして愛する人へのメッセージなど、死後の家族や親しい人々が困らないようにするための情報が詳細に記載されている。それは、生きている間に自分の死後のことを考え、家族や友人に何の負担もかけたくないという気持ちから生まれたノートである」


 達也は、しばらくその言葉を見つめていた。突然、彼の心の中で、何かがクリックした。自分が、どれだけ日々を無計画に過ごしていたのか。その重みが、彼の胸に突き刺さった。

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