第2話 会話のない母娘

 晩春の地方都市。緑が生い茂る川の土手に、旅をしてきたエンディングノートが佇んでいた。彼の存在を知る人々から追い回され、場所を変えるたびに新たな目撃者たちに囲まれる彼は、この土手で、ほんの少しの安らぎを求めていた。


 そんな彼の姿を制服姿の女子高校生・真紀が見つけた。彼女はスマホのカメラを向けることはせず、ゆっくりとしゃがみこみ、小動物を招き寄せるかのように、口で「チチチ」という音を出した。


 エンディングノートは、彼女を警戒して後ずさった。その動きに、真紀は驚きつつも笑顔で手を振り、「大丈夫だよ、怖くないから」と優しく囁いた。


 しばらくの間、真紀は手を伸ばし、エンディングノートに触れようとしたが、彼は再び後ずさる。真紀は、挫折せずに再び「チチチ」と音を立てながら、彼をなだめるように手を広げた。


 ゆっくりとエンディングノートの警戒心が和らいでいき、彼は真紀の前に進み出て、彼女の手提げに飛び込んだ。真紀は立ち上がり、穏やかな表情で川沿いを歩いていった。



 高校の教室で鐘が鳴り、一時の休み時間が訪れた。生徒たちは、自らの席から立ち上がり、グループごとに集まって話を始めた。その中で最も熱心に語られているのは、都市伝説として広がる「動くエンディングノート」の話題だった。


「昨日、動画で見たよ!信じられないよね、本が勝手に動くなんて」


「あれは絶対、特撮か何かだよ。信じてる人、バカだよね」


 真紀の隣には、彼女の手提げが置かれていた。手提げの口元から、紙の端っこが少し見えている。それは、エンディングノートの一部だ。真紀は内心、ニヤリとして、ちょっとした悪戯心にかられた。


「ねえ、もし本当にあのエンディングノートがここにあったら、どうする?」真紀は無邪気に、クラスメイトたちに投げかけた。


「冗談じゃないよ! 本当にあったら、めっちゃ怖いよ!」と友人が答える中、真紀は、ふと手提げの方を見た。エンディングノートは、静かに手提げに収まっていた。


 彼女は、他の生徒たちが熱心に、その伝説を語る中、そのエンディングノートを隠し持っている秘密を楽しんでいた。真紀は自分が、ちょっとした特別な存在のように思えて、優越感に浸った。これが、ずっと続いたらいいのにと思った。



 真紀はマンションの階段を上がり、自宅のドアを静かに開けた。中に入ると、リビングの奥でキーボードの打鍵音が聞こえてきた。母親が背中を向けて、パソコンの前で仕事に熱中していた。


 真紀は一瞬、母親の姿を見つめて、何かを伝えたいという気持ちが、こみ上げてきた。母親との短い会話や、彼女の日常の出来事を共有することで、母親の愛情を感じ取りたいという、ささやかな期待が胸に宿った。


 彼女は勇気を出して「お母さん、実は今日……」と声をかけようとしたが、言葉が喉を通らず、声は出なかった。打鍵音がリビングを埋め尽くす中、真紀の目には、わずかに涙が浮かんでいた。


 数秒の沈黙が流れた後、真紀は静かにリビングを後にした。自室のドアを開け、部屋に入っていった。その後ろ姿には、ひとしずくの涙と、言葉にならない感情が込められていた。



 真紀はイスに座り、目の前にエンディングノートを置いた。彼女の瞳には、淡い寂しさが浮かんでいた。


「もう何日も、お母さんと話してない。うちって、かなり変でしょ?」と、真紀はエンディングノートに語りかけた。


 エンディングノートは、首を横に振るかのように、体をよじらせて答えた。そして、真紀を元気づけたいのか、ぴょんぴょんと部屋の中を跳ね回った。


 真紀は、エンディングノートの可愛らしい動きに心を奪われた。彼女が「おいで」と呼ぶと、エンディングノートは、ゆっくりと彼女の方へ転がってきた。


 真紀は微笑みながら、エンディングノートを手に取り、そっと膝の上に置いた。そして、両手でエンディングノートを包み込むようにして、暖かさを伝えた。



 真紀と母親が、向かい合ってテーブルに座っていた。空気は張り詰めており、二人とも心の中に溜まった気持ちを、なかなか口にすることができなかった。静かな部屋には、フォークとナイフの音だけが響いていた。


 そのとき、部屋の扉が、ゆっくりと開き、エンディングノートが姿を現した。テーブルの上へと飛び乗ると、楽しそうに軽やかなステップでダンスを始めた。その動きは、とてもキュートで、誰もが笑顔になるような魅力があった。


 母親は目を輝かせて「真紀、これは絶対に撮らなきゃ!」と言いながらスマホを取り出して、動画撮影モードに切り替えた。「真紀も一緒に踊って、後で投稿しようよ!」と母親が提案すると、真紀は少し恥ずかしそうにしながらも、エンディングノートのリズムに合わせてダンスを始めた。


 真紀と母親が、エンディングノートと一緒に踊る姿は、まるで家族の絆を象徴するかのようだった。ダンスを通して、母と娘の間にあった、わだかまりや距離感が徐々に薄れていくのが感じられた。ダンスが終わると、母親は真紀の頬を撫でて「ありがとう」と小さくささやいた。真紀も、うなずきながら笑顔を返した。その瞬間、ふたりの間の溝は、なくなったように感じられた。

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