ハニーミルクパン

オキタクミ

ハニーミルクパン

 二度寝から覚めて目を擦りながらスマートフォンを手にとり、画面に映る数字の並びに目をやる。数秒かけて頭がはっきりしてきて、ただの数字が時刻に変換され、今日のスケジュールが記憶の中から浮かび上がってきたとき、僕は慌ててベッドから机へと駆け寄り、机の上の PC を立ち上げる。ひとつの操作ごとに待機時間に苛立ちながら、パスワードを打ち込み、スラックを開き、ミーティング用のズームの URL を探してクリックする。時刻を確認すると、開始時間を二分過ぎている。しかし、ズームの部屋にはいってみても誰もいない。あれ? と思って Slack をもう一度確認すると、一時間ほど前に教授が「すみません。やっぱりきついので今日の定例会はお休みにさせてください」とメッセージを残している。

 まあそれはそうか、という気持ちになる。昨日、教授は新型コロナウイルスで陽性反応が出たと Slack で言っていたのだが、そのあとに、「まあ微熱なので大丈夫です。定例会はオンラインでいつも通りやりましょう」と続けていた。さすが、日本人が二十四時間働いていた世代だ、なんて思っていたが、今回はさすがに厳しかったらしい。定例会は夕方くらいまで続く予定だったから、いきなり、今日の予定が全くなくなってしまった。


——


 「おはよ」

 PC の画面の中、1,000 キロ離れたソウルのどこかで、推しアイドルのライブ T シャツを着たマナがひらひらと手を振る。それから視線をちょっと上に逸らして前髪を触る。自分側の画面の上のほうに小さく映るインカメラの映像を、鏡代わりにしているのだろう。

 「おはよう」

 と返しながら、バターを塗ってハムをのせたトーストを頬張り、マナにたずねる。

 「もう朝ご飯食べた?」

 「うん、ちょっと前に食べた」

 「早起きじゃん」

 「いつも通りだよ」

 と笑って、

 「むしろそっちが遅くない? いつもだったらミーティングやってる時間だよね」

 「うん。寝坊した」

 「あぶな。中止になってなかったら遅刻してたんじゃん」

 「そうなんだよね。ラッキーだった」

 半分ほど齧ったトーストを皿に置いてカップを手にとる。コーヒーをすすりながら右のほうに目をやると、窓の外は曇り空だ。いっぽう画面に目を戻すと、マナの背後の窓からは、春の晴れた陽射しが射し込んでいる。

 マナは半年ほど前に留学目的でソウルへ渡った。そして、本来ならこの四月に日本へ戻ってくる予定だったのだが、コロナウイルスのごたごたで帰国が延び、延期後の帰国の予定が決まらないまま今に至っている。ソウルと東京のあいだに時差はないから、こうやって Zoom をつなげば、数秒にも満たないラグを除いて同じ時間を共有できる。けれど、同じ空は見ていない。それくらいの距離感。

 「そっちはなんか予定あるの?」

 「ううん。私は今日はもとから休み」

 「そうなんだ。いいね。なにして過ごすの?」

 「パン焼く」

 「またか。なんか最近はまってんね」

 「まあね。丁寧な暮らしをしようと思いまして」

 外食ができなくなったことをきっかけに急に料理に凝り出した友人が何人か思い浮かぶ。自分でチャーシューをつくったり、トマトを干してドライトマトにしたり。

 「なんでパンなの?」

 「なんか憧れあったんだよね。パンを自分で焼いて食べる生活。素敵じゃない?」

 「ふーん」

 ふと、マナがクリスチャンであることを思い出す。両親が結婚してしばらくしてクリスチャンになり、そのあとにマナが生まれたので、彼女は物心ついたころから教会に通っている。確か名前も聖書の一節からとられていたはずだ。とはいえ、寝坊した日曜日にはミサに行かなかったりする。聖書に書かれている話を文字通りに全部信じているわけでもない。けれども神の存在は信じているし、進化論と創造説だと創造説のほうが信じやすいらしい。

 いっぽうの僕は日本人に多いタイプの無宗教で、神も霊も魂も信じていない。存在を疑っているとかいうよりは、そういうものがあると思う積極的動機を最初から欠いている。初詣は行かないとなんとなく気持ち悪いが、それも別に神を信じてるとかではなく、単に習慣の問題という感じがする。深く考え出すとよくわからないが。

 不意に思いつきが頭にのぼる。

 「おれも一緒にパン焼いてみたいんだけど」


——


 キッチンの隅のほうに汚れなさそうな場所を見つけて PC を置き、Zoom の部屋を立ち上げる。必要な材料を順番に出して並べる。強力粉。ドライイースト。牛乳。無塩バター。はちみつ。牛乳以外は全部家になかったから、いったん家を出て近所のスーパーで買ってきた。マナから送られてきたレシピを見た僕は最初、「強力粉じゃなきゃダメなの? 薄力粉なら家にあるんだけど」と言ったのだが、マナに「ダメに決まってるじゃん。美味しく焼けないよ」と返された。「バターは有塩でもいいよね?」「ダメだよ。なに言ってんの」

 材料を並べているあいだにマナがオンラインになっている。向こうの背景もキッチンらしき場所に変わっている。

 「それではつくっていきましょう」

 とマナが先生ぶるので、僕も、

 「はい。お願いします」

 と生徒ぶる。

 説明を聞きながら画面をのぞきこみ、マナがやった作業を真似する。ボウルにバター以外の材料を入れて混ぜる。マナはなんだか手のひらサイズのプレートみたいなものを使っている。僕はそんなもの持っていない。ゴムべらや木べらもない。しかたがないのでシリコン製のお玉を使って混ぜる。粉っぽくなくなってきたところで台に出し、こねる。マナのほうはいい感じにまとまってきても、なぜか僕のほうはべちゃついたままで、少しあせる。けれどしばらくするとだんだん僕のほうもまとまってくる。バターを入れて再びこねる。生地とバターが混ざらず、さっきまでひとつにまとまっていた生地がばらばらに分かれてしまう。またあせるが、しつこくこねていると、だんだんまたまとまってくる。

 「できた?」

 一足先に作業を終えていたマナが聞いてくる。憎らしいことに、いつのまにかキッチンに椅子を持ち込んで座り、スマートフォンをいじったりしている。

 「うん」

 「そしたら、ボウルに戻してラップかけて、あったかいところで一次発酵させましょう」

 「一次?」

 「一次発酵と二次発酵があるの」

 「え、なんで?」

 「一気に最後まで発酵させちゃうとおいしくないんだよ」

 「なんで?」

 「なんでかは知らないけど、そういうもんなんだよ」

 生地を発酵させているあいだに、ちょっと遅めの昼ごはんを食べる。僕はカップ焼きそば。マナのほうは手早くパスタをつくり、作り置きの野菜のマリネを添えて、ちょっとしたおしゃれなランチを用意している。こっちにいたころは、カップ焼きそばほどではないにせよ、もうちょっと雑な食事をしていた気がするんだけど。いつのまにか、ずいぶんきちんと食事に気を配るようになっている。

 おたがいご飯を食べて、食器を洗って、ちょっとおしゃべりしてから、パン作りを再開する。

 「ではフィンガーチェックをしてみましょう」

 さっきより少しだけふくらんだまんまるい生地を指先で押す。生き物の肌みたいにわずかに押し返してくる感触があるが、指を離すと穴が残る。PC の前に戻ってマナに伝えると、「いい感じだね」と返ってくる。

 オーブンレンジの天板に、いつ買ったのかまるで覚えていないクッキングシートを敷く。生地を半分に分けて、さらに半分に分けて、もう一度半分に分ける。八等分にされたうちのひとつを手にとって、くるんと裏返すように丸め、閉じたほうを下にして、天板の左上の隅に置く。残りもひとつずつ丸めて、左上から右下へ並べていく。同じ大きさと同じ形のころころ丸いパン生地が八つ、三かける三から右下ひとつぶんが欠けた格好に並ぶ。よく見るとひとつずつ微妙に大きさが違って、まんまるからのわずかな歪み方も違っている。自分がつくったそれを見下ろしながら、なんだかミニマリズムか派の彫刻みたいだと思う。

 「そしたら十分ほどベンチタイムをとります」

 「ベンチタイムってなに」

 「生地を休ませてあげるの」

 「休ませるってなに」

 「いちいちうるさいな理系は」

 画面から視線を外して、天板に並んだ生地たちを振り返る。生きたミニマリズム彫刻、なんて言葉が浮かぶ。

 ベンチタイムのあと、生地を天板ごと、ベランダの前辺りの床に置く。PC をリビングの机に移動させて、またマナとしゃべりながら一時間くらい、生地が発酵するのを待つ。

 「そろそろかな」

 とマナが言うので、ベランダのほうに行ってしゃがみこみ、生地を確認する。

 「おー」

 思わず声を上げる。生地のひとつひとつがさっきの二倍くらいの大きさに膨らんでいる。

 「すごいね」

 振り返って、机のうえのPCに向かって声をかける。

 「なにいってんの」

 と笑うマナの声が、スピーカーから聞こえる。


——


 焼き上がったパンは白くて丸い。立ち上る温かく香ばしい空気にかすかにはちみつの香りが混じっている。焼きたての熱さを指先に感じながら、隣とくっついたパンをひとつちぎり、皿にのせる。お湯を沸かしてコーヒーも淹れる。リビングの机にパンとコーヒーを持っていく。パンを手に持って顔の横に持っていくと、「おいしそうに焼けたね」と、机に置かれた PC 画面の中でマナが言う。生地をこねていたときの手のひらの感触を思い出す。

 ひとくちかじる。

 「おいしい」

 ふっくらした食感。小麦と蜂蜜の甘み。そういえば、焼きたてのパンって今まで食べたことなかったかもしれない。

 「よかったね」

 画面の中でマナが嬉しそうな顔をする。

 「マナがつくったのも見せてよ」

 「いいよー」

 「ん? なにそれ」

 マナが手に持って顔の前に掲げたパンは大の字に手足を広げた人型をしていて、お絵描きみたいな目と口までついている。

 「なんか生地丸めるのすごい時間かかってるんだもん。暇でさ。遊んじゃった」

 そう言ってけらけらと笑い、マナは人型のハニーミルクパンを頭からかじる。

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