サイレンの中で僕たちは

紫陽花の花びら

雨の渋谷

 雨の渋谷は重苦しい。大きな雨粒が、地面に勢いよく叩きつけられる。雨が轟いている。狂ったような雨だ。この雨は、激しい怒りだろうか。深い悲しみだろうか。胸が張り裂けるような恋慕だろうか。湿ったアスファルトの匂いが充満し、空は、分厚い鼠色の雲が覆っている。僕を、閉じ込めている。閉塞感が、匂いが、僕を苦しめる。気管支が、ぐっ、と握りしめられているかのような苦しみだ。なんだか、呼吸がしづらい。濡れた地面は、カラフルなネオンサインの光を反射している。地面の、ぼやけたネオンサインは、雨粒で揺れる。輪郭がゆらゆらと動く。通り過ぎてゆく車のエンジン音も、その響きは、あの鼠色の雲に吸い込まれる。音すらも、雲を通り抜けていくことができない。

 雨の湿った空気が、僕にべったりと纏わりつく。その冷たく、湿って、重苦しい空気は、僕を地面へとゆっくりと押しているようだ。僕はここにずっと立っていたら、地面にめり込んでゆき、この世界から消えてしまうのではないかと思った。駅の入り口から、雨の渋谷を眺めていた。人が多い。広告がこれでもかと僕の目に飛び込んでくる。車が街を行き交う。車はどこへ向かっているのだろう。僕は、今、どこに向かっているのだろう。

「おまたせ」

 傘を閉じながら、先輩は僕のところにきた。艶やかな長い黒髪が揺れた。先輩は僕の目を覗く。この黒い瞳に、僕は吸い付けられる。この瞳は、いつも、僕を見透かしているように感じた。

「ほんとに、結構待ちましたよ」

「可愛くないね、相変わらず」

 そう言って、先輩は僕の手を取った。先輩の手は冷たかった。二人で、先輩の大きな傘に入り、雨の渋谷を歩き出した。渋谷という街は、いつだって騒がしい。カラフルなネオンサインの光は、僕の心を疲れさせる。

 大通りを抜け、路地に入ると、雰囲気が一変する。雨宿りをしつつ路上喫煙をする人々。僕は、彼らが怖かった。この街にいる先輩以外の人全員が、僕の敵のように思えた。傾斜が急な坂を上り。僕らの目的地が姿を現す。古めかしいその建物は、ラブホテルだった。赤い背景に白い文字で書かれた看板が、雨の中で誇らしげに光っていた。

 年配の女性が受付にいた。鍵を受け取り、僕らは部屋を目指した。どこか昭和の雰囲気が漂う建物だ。階段の踊り場には、印象派の絵が飾られていた。部屋にたどり着き、先輩は鍵を開け、重々しい鉄の扉を開いた。もの寂しいオレンジがかった電球の光が、部屋を照らしていた。ほのかに薄暗い。荷物や上着をあたりに放り、先輩と僕は抱き着く。僕の心の何かが、瓦解していくのを感じる。

 僕と先輩は、ゆっくりとベッドに倒れこんだ。先輩が僕の上に覆いかぶさり、キスを繰り返した。先輩の柔らかい唇は、僕の唇を優しく包んだ。先輩の体をそっと撫でる。太ももをすうっと撫で、先輩のモノをまさぐる。先輩のモノは温かく、濡れていた。先輩のモノを触っていると、先輩の息が荒くなっていった。

 僕らは服を脱がせ合い、僕のモノにコンドームを着けると、先輩は上から、僕のモノを先輩の中に、ゆっくりと、入れていった。

「んっ………」

 と、先輩は声を漏らし、顔をしかめる。

「痛くないですか?」

「うん……大丈夫」

 と、先輩は微笑んだ。僕のモノが、先輩の中に入っている。僕は、こんな時にしか、人とつながっているという実感が持てなかった。先輩は腰を、ゆっくりと上下に動かした。僕のモノは、先輩のモノに吸い付けられるように、ぴったりと先輩のモノに貼り付けられていた。僕のモノが先輩のモノに、ぬるりと、撫でられる。僕は心地が良かった。先輩の中にいるということが、僕を安心させた。僕は一人じゃないんだと、そう思えた。

 そんな中、救急車のサイレンが、かすかに聞こえてきた。先輩は気づかずに、情事にふけっていた。一方、僕はそのサイレンの音が気になった。鋭く響く、高音。僕は、なぜだか、誰かが死んだのだと思った。僕らがこうしている間に、誰かが死んだのではないかという、そんな予感がした。その中で、僕は生を営んでいる。一番、生きる行為をしている。先輩に吸い込まれる僕の性器を見て、僕は違和感を覚え始めた。


 ***


 僕は先輩の書く小説が好きだった。おとなしくて、可憐な先輩からは想像できないほど、人間を鋭く描き、泥臭く、綺麗で、美しい小説だった。一つ一つの言葉が好きだった。好きで好きでたまらなかった。そして、僕は聞いた。

「先輩は、何で小説を書いてるんですか」

「……人を、殺すためよ」

 先輩は、そう言って、笑った


 ***


 事が終わり、先輩はハイライトを吸い、僕は天井を眺めていた。ラブホテルの天井を眺めるたびに、僕は何をしているのだろうという感覚に襲われる。現実から遊離した、ラブホテルという空間にいることは、心地がいい。現実から目を背けることができるから。けど、冷静になって、ラブホテルの天井を眺めていると、「僕はここにいていいのだろうか?」という疑問が、僕を襲い始める。僕はここで、現実から目を背けて、何をしているんだ。動悸が止まらなくなる。漠然とした不安が、僕を覆いつくそうとする。

 先輩は、ハイライトを灰皿に押し付けて、僕を優しく抱きしめる。人の肌の温度が、温かい。ほんとうに、温かい。

「君は、いつも不安そうだね」

「……はい」

「私は、そんな君が好きよ。陰気で、自信がなくて。いつも何かにおびえていて。傷つけるのも傷つくのも怖くて。誰にも踏み込めなくて。誰にも踏み込まれたくなくて。何も決められなくて。ずっとくよくよしてて。弱くて。強くて。優しくて。厳しくて。死にたくて、でも生きたくて。そんな君が、大好きなの」

 先輩は、僕の頭を、胸に寄せ、僕の頭をそっと撫でた。先輩の心臓の音を聞くと、僕はたまらなく安心する。このまま寝られたら、僕はなんて幸せなんだろう。僕は、生きていてもいいのだと思える。そのとき、また、サイレンが鳴り響いた。サイレンの音が、僕の耳に突き刺さる。

 僕は、ぐるっと、死に囲まれているような気がした。

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サイレンの中で僕たちは 紫陽花の花びら @ajisainohanabira

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