第8話 誘い
今年の夏は、小さな引越しから始まった。
7月に入り、暑さも段々とその猛威を振るってきているこの頃、アパート一階の広い部屋への引越しが終わった俺と橙子は、額から汗を流して座り込んでいた。
「つ、疲れた……」
元々大した荷物はなかったが、それでも引越しは引越し。お金がかからないように自分たちで作業したのだが、やっぱりきつかった。なんとか午前中に終わったのは良かったけれど。
(ま、ともかくこれで生活は楽になるな)
金銭的な負担は据え置きだが、お互いにとって精神的に良いことだらけである。
部屋が分かれたのは大きい。今までは着替える時とか、いちいち部屋を出たり廊下で着替えたりだったし、それが解消されるのはありがたい。
橙子はもう中学生だし、男と同じ部屋で寝るのも精神的に疲れていただろう。
橙子には一人部屋を、俺が寝たりする部屋はリビング的な扱いにした。テレビが一台しかないため、俺は橙子の部屋に入らないが、その逆は良いことにした。食事も一緒にすることになっているので、俺に関しては今までと変わらない感じだ。
「ねぇ」
ソファに腰掛ける橙子は、少し顔を逸らしながら小さく呟いた。
「ありがと」
「どういたしまして」
何がとは聞かなかった。部屋のことだとか、色々とあるんだろうけど、聞いたところで意味はない。このやり取り自体に意味があるのだから。
「この後、まひるちゃんと遊びに行くんだっけ?」
「うん。シャワー浴びて、お昼過ぎには出る」
「昼ご飯は?」
「食べたい」
了解と一言返して、俺は台所に向き合う。と言っても、冷蔵庫の中身は調味料しかない。今日はあれだな、そうめんだな。
シャワーを浴び終えて、着替え終わる頃を見計らってそうめんを茹でる。シンプルに麺つゆだけの素素麺である。
「そうめんだ」
「悪いな。冷蔵庫がまだ空なんだ」
「別にいいよ。私、素麺好きだよ」
「ならいいけども」
二人でソファに腰掛けて、手を合わせる。
「「いただきます」」
二人で素麺をすする。うまい。
隣に座る制服を着た橙子をチラ見……って、遊びに行くのに制服?
「制服で遊びに行くのか?」
「別に普通だから。うちの制服可愛いし、みんなこれで遊びに行ってる」
そんなものなのか。まぁそれならいいんだけど。
「もしかしてだけど、あんまり私服持ってないか?」
「それは……」
私服がなくて、制服で遊びに行くと言うのなら、それは少々問題な気がする。よくよく考えてみれば、寝巻きみたいなラフな格好しか見たことないな。
「夏休み明けに修学旅行もあるし……節約してるの。今日だって遊びに行くって言っても、どっかでおしゃべりするだけだし」
修学旅行か。なるほど。寝泊まりをするわけで、ずっと制服ってわけにもいかないし、他の子の目もあるし、安っぽい格好は嫌だってことか。
というか、こうした部分でのズレがやっぱりあるんだよな。
「服なら買ってあげるけど」
「え?」
「お小遣いとは別で、服は買ってあげるから」
今橙子にあげている額は、月に5千円だ。多いか少ないかは諸説あるのだろうが、その中で衣服まで揃えるとなったら大変だろう。
アクセサリーを買うとかならお小遣いの中からだが、最初の何式かは買ってあげてもいいだろう。
「いいの?」
制服でも普通と言いながら、俺の提案に目を輝かせているところを見るに、橙子にとって遠慮のライン上のことだったのだろう。まぁ確かに、言い出しづらいことではあるか。お金かかるしな。
「いいよ。せっかくだから、このタイミングで必要なもの揃えるのがいいか」
私服だけじゃなくて下着とかだって必要だろうし、俺に言い出しづらい物も、お金を渡して買わせることにしよう。
あれもこれも買ってやるわけにはいかないが、必要なものは必要経費だし、別に買い渋るつもりもない。
「ねぇ、午後って暇?」
「ん?まぁ、今日はもう予定ないけど」
「だったら、その、一緒に行かない?遊びに行くのは元々駅前のモールだったし」
「や、でもまひるさんがいるだろ?俺がいたら遊びづらいだろ」
女子中学生のところに割って入るほど、俺の神経は図太くないのだ。
「流石に遠慮しとくわ」
「そっか……別に、気にしないのに」
俺が気にするっての。ま、ともかく話はまとまったな。
「ほれ、一万」
「一万!?そんなにくれるの!?」
「その代わり、必要なものを揃えときな。服だけじゃなくて、必要なものはたくさんあるだろ」
「そんなこと言っても、何買っていいのよこんなに……」
口には出しづらいが、女の子には生理とかもあるしな。生理用品とか、必要だろうし。
「お金だって無限に渡すわけじゃない。必要なものは買ってあげるってだけだ。だから、無駄遣いはするなよ」
「……わかった」
いかにも渋々、といった様子で橙子はお金を受け取る。うーむ。わからん。あげるって言ってるのだから、素直に受け取ればいいものを。
「じゃあ、行ってくるから」
「ん、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
橙子を見送ってから、新調したソファに腰掛ける。新調したと言っても安物だが、それでも触り心地は悪くない。
「長いな……」
これから橙子との生活が再始動する。期間にして5年。たった2ヶ月も経ってないうちに、たくさんの問題が起きている。無事にやりきれるのだろうか。
そんな心配をしつつ、橙子が帰ってきたのは、それから2時間ほど経った頃。想定していたよりもずっと早く、少々面食らってしまう。
「ただいま」
「おかえり。随分と早かったな」
「別に……ん、これ」
「ああ、お釣りか……って、おい、これ……」
橙子に渡されたのは一万円。渡した金額そのままが返ってきた。
「え?買い物は?」
「してない。何買っていいかわからなかったから」
「わからなかったってお前な……」
わかるだろ普通。自分が着る服だぞ?自分が着たい服を買えばいいだけだし、生理用品とか、女の子特有のものは俺の方がわからないんだが?
「言ってくれなきゃ、わかんない」
「言うも何も、自分のことだろ?」
「違うもん。だってこれ、私のお金じゃない」
(自分のお金じゃないって、それはちゃんとあげたお金だ。橙子のお金で間違いない。そりゃ稼いだのは俺だけど、一から百まで権利を主張するつもりなんてない。やばい、何が言いたいか本当にわからないぞ)
「なんか、使うのが怖かった」
「怖いって言われてもな……別に買い物なんかしたことあるだろ」
赤ちゃんじゃないんだから。
「今日はもう、寝る」
「あっ、こら、拗ねるな!晩御飯は!?」
「いらない!おやすみ!」
バタン!とドアを閉めて、自室に閉じこもってしまう橙子。おやすみも何も、まだ日が暮れてもいないんだが。ま、家出されるよりは可愛げがあるか。ともかくあれだ、拗ねられてもこっちが困るんだよな。
(言語化できない感じか……)
まだ付き合いは浅いが、橙子がはぐらかす時は大体、言語化ができなくて本人も困ってるパターンだ。お互いに何がわかってないパターン。別に喧嘩とかじゃないけど、困ったなこれは。
うーんと、ない頭を捻っていると、橙子が部屋から出てきた音がした。トイレかと思ってあまり気にしなかったのだが、予想に反して橙子は部屋に入ってきた。
「これ」
短く一言添えて、橙子は携帯を差し出してきた。
「これ……携帯?何?」
「いいから、出て」
押し付けられるようにして、繋がった相手もわからないままに電話に出る。
「も、もしもし?」
『おお、信也君。私だ、まひるの父だ』
「遠山さん!?い、一体何か……?」
初対面で詰められた思い出から、あまり個人的にいい印象を持たない相手だ。いや、良い人なのはわかってるんだけどね?別にそれで恨んでいるとかは全くないし。
『なに、ちょっとご飯のお誘いでもと思ってね。今夜、空いているかい?』
前回の続きというわけか。今晩は空いているけど、ことタイミングで橙子を置いていくのは、なんかだよな。
「行ってきて」
「橙子?」
「ほっとかれたとか思わないから、行ってきて」
「……さいですか」
見透かされたようで、少々気恥ずかしいが、当の本人がこう言っているし行くとしよう。
タイミングからして、今日の出来事も知っているのだろうし。
『よし。そしたら場所は……』
行きつけの美味しいお店があるそうで、場所はそこになった。予約も取れたようで、早々に集まることになった。
「じゃあ、行ってくるから」
「ん、行ってらっしゃい」
橙子に見送られて俺は家を出た。これで帰ったら拗ねてるとかやめてくれよ。
示された場所に向かえば、遠山さんは既に到着していた。
「お待たせしました」
「私も今来たところだ。さ、入ろうか」
若い男女みたいなやり取りをした後、案内に沿って席に着く。落ち着いた店内から感じるのは、なんだが大人な雰囲気だ。
「普段お酒は飲むかい?」
「あんまりですかね。職場の人に誘われて、1.2回飲んだぐらいです」
家では全く飲まない。20歳になったのがついこの前というのもあるが、誕生日祝いに親方たちに連れてってもらった日は、見事吐くまで飲んでしまったわけだが(完全に調子乗っていた)。
「好きなのを頼んでくれ」
「……ありがとうございます」
どうやらというか、やはりこの場は奢りらしい。まぁ助かるしありがたいけれど。メニューを見る限り、そこそこ高いし。
それぞれ一杯目を頼み、勧められるままに何品か注文する。そして乾杯を終えた後、遠山さんは真面目な顔をして切り出した。
「まずは改めてだが、この前は申し訳ないことをした」
そう言って頭を下げる遠山さん。
「……わかりました。もともと僕にも落ち度がありましたし、あの件は水に流します」
気にしてないと言えればそれが1番だったのだろうが、内心めちゃめちゃ気にしていたのだろう。そんな回りくどい返答になってしまった。
「それに、僕的には安心したっていうか」
「安心?」
「ええ。あの子を守ってくれる人は、身近にちゃんといたんだなって」
生憎、俺を含めて身内にはいなかったからな。
「そうか……何かできることがあれば、遠慮なく言って欲しい。橙子ちゃんは昔から知っている子だからね」
昔から、その言葉に引っかかる。本来はそんなことはあってはならないのだから。
「君の境遇に深入りするつもりはない。それは望んでいないみたいだからね」
「はい。自分のことは、自分で折り合いをつけたいです」
別に気にしていないわけでも、忘れきったわけでもない。両親に対する複雑な思いは、今だって胸中に燻ったままだ。
本人にぶつけることのできないこの思いは、せめて自分でなんとかしたいという本音であり、矜持みたいなものだ。
運ばれてくる料理に手をつけながら(めちゃくちゃ美味い)、遠山さんは本題を切り出してきた。
「また、橙子ちゃんと揉めたってね」
「はい。今回は喧嘩というよりは、お互いに困っているというか」
ある程度はまひるさんから聞いていたみたいだが、改めて自分から状況を説明する。
「橙子ちゃんは何か言ってなかったかい?」
「橙子は、怖かったと。私のお金じゃないからって」
「他には?」
「他には、特に……」
『だったら、その、一緒に行かない?』
「あっ……その、一緒に行かないかって」
「そこがポイントだろうね」
なぜ橙子が一緒に行きたがったのか。それがポイント……だめだ、全くわからん。買い物なんて、友達2人で行った方が楽しいだろうに。
「じゃあ、一つ質問をしよう」
そう言って遠山さんは、俺が頼んだ卵焼きを摘む。
「信也君は、どうしてこの卵焼きを頼んだのかな?正直に理由を言って欲しい」
卵焼きを選んだ理由?確かに理由はいくつかある。
理由その1。メニューにデカデカと人気No.3と書いてあるから。
理由その2。写真を見る限り、切り分けられていて取り分けやすいと思ったから。
理由その3。卵焼きを嫌いっていう人は少ないだろうっていうこと。
まぁ、頼む時はそこまで分析しきっていたわけでもないけれど、簡単に結論を言えば……
「無難かなって。2人で食べるのに、ちょうど良くないですか?」
「そうだね。実に良いチョイスだと思う。だけど思い出してほしい。私は君になんて言ったかを」
「なんて言ったか……?」
席について、メニューを見て、好きなものを頼んでって……って、好きなもの?
「好きなものを頼んでと言ったのに、信也君は、好きなものを頼んだかい?」
「それは……」
そりゃ、頼んでいないさ。だってそんなことできるか?できるわけがない。
卵焼きが嫌いなわけじゃない。だけど本当に好きなものと言われたら、この中なら……居酒屋で一発目に頼むのはあり得ない、1人用のお茶漬けということになってしまう。いやいや、でもこれはあれだ。
「別に遠慮してたわけじゃなかったんですけど」
なんというか、常識的に考えて?目上の人に奢ってもらう場で、いきなり自分だけが食べたいものを頼むか?その真ん中というか、良い塩梅のものを狙うでしょ、普通。
「わかっているさ。人の言う遠慮せずを、そのままに受け取る大人は少ないだろうからね」
遠山さんは摘んだ卵焼きを口にして、飲み込んだ後続ける。
「橙子ちゃんはきっと、試されてるように感じたんだろうね」
「試されてる?」
「そうだ。今信也君は、私に遠慮している状態だね?だから私の奢りだからと言って、好き放題注文はしたりしないし、頼むものだって私のことを考えたものになる」
「まぁ、そうですね」
「それは私に悪く思われたくないから。違うかい?」
「違わないですね。嫌われたくないですし、どう思われるかは気にしますよ」
当たり前の話だ。こうして誘ってもらって、しかもこの場は奢りなのだ。感謝だってしてるし、橙子の友達の親だ。恥ずかしいことはしたくないし、そう思うのは当然だ。
「橙子ちゃんだって同じなんだよ」
「え?」
「橙子ちゃんだって、信也君に嫌われたくないんだよ」
「それは……」
なるほど。そんな視点で橙子のことを考えたことはなかった。
そうか。思えば、簡単な話だったのかもしれない。
「考えてもみなさい。あんまり関係の深くない上司に昼飯代と言われて、一万円渡されたとするよ。いくら使える?」
「1番安いの頼みますね、間違いなく」
「だろう?まさしく試されているみたいで、怖くなってしまうからね」
そりゃ、怖くて使えないなぁ。
「ましてや橙子ちゃんはまだ中学生だ。上手なお金の使い方だってまだ知らないんだろう。間違えて、無駄遣いして、信也君に失望されたらどうしようと、そう不安になったとしてもおかしな話じゃない」
だからこそ、橙子は言ったのだろう。
「一緒に行こうって、そういう意味ですか」
「そうだね。本人の前だったら、間違えも何もないからね」
ただ与えれば良いわけじゃないと。これは想像以上にハードルが高く感じるな。
「でもあれなんですよ。橙子は女の子だし、それこそ生理用品とか、下着とかは口を出したくないというか」
「そこを踏み込んでこその家族だと思うけどね。ともかく一度は言葉にして、そうしたデリケートな部分に、今後触れるのか触れないのかっていう、そもそもの疑問をぶつけた方がいいと思うけどね」
なるほど。俺はまだそこの段階なわけだ。
……なんというか、めちゃくちゃ頼もしいなこの人。あれだ。この際色々と、疑問とか愚痴とかぶつけてしまおうか。
なんて、普段はあまりそんなことを思わないのに、そんな思考回路になっていたのは、気づかないうちに既にお酒に酔っていたからだろう。
遠山さんにしてもそんな気はなかっただろう。実際この時はまだ、サワーを2杯しか飲んでいなかったし、ハイペースで無理やり飲まされたとかではないのだから。
ただ、自分の想定よりもかなり、俺はお酒に弱いらしい。
「ちょっと信也!大丈夫なの!?」
「へ?ぜんぜんだいじょうぶだが?」
「めっちゃ酔ってるじゃん!」
家に帰る頃には、俺はベロベロに酔っていた。幸いにも記憶は飛んでいなかったのだが、出かけたままの姿でベッドにダイブしたのだろう。いかにも飲み帰りな様相で目を覚ましたのは、翌日の11時である。
昨日帰ってきたのは10時前だったはずなので、丸々半日寝ていたことになる。
「あっ!橙子のごはん!」
「私はペットか」
ハッとした俺にツッコミを入れる橙子。別にそんなつもりはなかったんだが。
「体調は?」
「や、たくさん寝たから全然平気。むしろちょっと調子いいかも」
強がりではなく、二日酔いは全くない。
精神的に、色々と愚痴をこぼせたのが大きかったかもしれない。橙子には聞かせられないような話もしたので、話題として口に出すことはしないが。
ともかく、俺が今すぐするべきはお誘いだろう。
「今日、午後空いてるか?」
「……空いてるけど」
「一緒に買い物行くか。昨日は断って悪かったよ」
「う、うん。だけどあれだから、もともと、別に怒ってるとかじゃないし」
謎の言い訳は照れ隠しとして受け取っておこう。
ともかく、俺は橙子とのお出かけすることになった。
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