第7話 一歩
「本当にごめん……橙子ちゃん」
「ううん。悪いのは私だから」
信也がついた嘘。その正体がまひるの告白によって明らかになった。
虐待を疑われたこと。それを私に対して悟らせないようにしていたこと。それを聞いて、胸を渦巻く罪悪感が増すのを感じた。
まひるは自分のせいだと、自らを責めているけれど、そもそも私が信也の悪口を言ったのが発端だし、誤解させるような材料は揃っていた。
この身を心配して動いてくれたまひるを、責める気にはならなかったし、そうするべきではないとわかっていた。
(なにしてるんだろ……ほんとに)
要するに、信也は私に気を遣って、それを嘘をついたと指摘されたわけだ。怒るのも当然だ。
「これで……終わり?」
勝手に押しかけて、勝手に出て行って、それで終わりなんて。
全部自業自得だし、自分の行動が招いたことなのはわかっている。だけど、そんなのって。
そんなのって、あんまりだ。
「もう……わかんないよ」
何もわからない。どう信也に接すればいいかもわからなかったし、信也が何を思っているのかもわからない。
別に悪いやつじゃないのなんてわかってるし、優しい人だっていうことも気づいてる。
でも、どうしてもだ。どうしても引っかかるのだ。
あの時涙を流さないで、冷たい視線を両親に向けていた姿が、どうしようもなく脳裏に根付いて忘れられない。
一度尋ねた際ははぐらかされたけど、私にはその理由がどうしても気になる。百歩譲って泣かなかったのはいい。だけど、あの冷めた視線の意味だけを、どうしても知りたいと思ってしまう。
「ねぇ、橙子ちゃん。私、お兄さんに謝りたい」
「まひる?」
「橙子ちゃんと話してみて、思ったことがあるの」
こんなことを言えた義理じゃないけど、と前置きをしてまひるは続ける。
「最初は橙子ちゃんの話を聞いてて、ひどい人だと思ってた。特にお弁当の件とか、正直普通じゃないって思った」
まひるの言う通りだ。言い出すべきは私だったのに、それを言えず誤解を生んでしまった。心のどこかで、信也のせいにしていた自分を、私は否定することができない。最低だ。
「橙子ちゃんが酷い目にあってるんじゃないかって、すごく不安だった。だけど今日の話を聞いてて、そうじゃなかったんだって思った」
「お兄さんと言い合いになっちゃって、喧嘩して家出しちゃって、それを橙子ちゃんは後悔してる」
まひるの言う通りだ。私は今、自分がしたことを後悔している。
「それはきっと、正しいことだと思うの」
「正しいこと……?」
どう言う意味だろう。私は接し方を間違った。かける言葉を間違った。
なのにそれが、正しいこと?
「だって橙子ちゃんは、後悔して、反省して、悲しんでいるから」
後悔すること、反省すること、悲しむこと。確かにそれは、正しいことかもしれない。
だけど元を辿れば、私が招いた事態だ。そんな風に、開き直ることが良いこととは思えない。
「橙子ちゃんにとってこれは、ケンカじゃなきゃダメなんだと思う」
「……ケンカだって、しちゃダメでしょ」
「私だって、お父さんとケンカぐらいするもん」
どこか開き直ったように言うまひる。だけどその声は震えており、彼女も勇気を出して踏み込んできてくれていることがわかる。
「ケンカして、謝って、仲直りして。何回も繰り返してるけど、私は今もここにいる」
「……家族だから?」
「うん。家族だから」
家族という響きを、正直羨ましく思った。私にはもう無くて、取り戻すことはできないものだから。
「橙子ちゃんにとって、お兄さんは何?」
「私にとっての、信也……」
まひるの問いかけに、私は即答することができなかった。
家族……というのは違う気がする。私にとって家族は、死を悲しむことができる関係だ。
だから信也を、家族とは思えない。
「だけど、他人は、絶対違う」
信也を他人と思うことはできない。血の繋がりがあるのはもちろんだが、一ヶ月ほど一緒に過ごして、私に向けられている感情が、私にとって暖かいものであることは実感している。
言葉にもしてくれた。他人はありえない。
「友達も違うし、保護者も……なんかしっくりこない」
私を受け入れてくれた事実を、義務感からくる行動と思いたくはなかった。なんかそれは、信也に失礼な気がした。
だから保護者は違う?きっと客観的に見れば、保護者という言葉が一番合うのだと思う。
だけどそれを嫌だと思う私。
家族であることは拒絶しておきながら、薄い関係性であることを認めたく無いという、矛盾した心情。
私はもう、自分のことが分からない。
「大切な人じゃ、だめかな?」
悩む私に、まひるはこんな提案をしてきた。
「大切な人……?」
「うん。家族じゃないのに、友達でも無いのに、それでも仲直りしたいって思えるのは、私は素敵なことだと思う」
家族・友達・保護者。
そのいずれとも違うのに、仲違いしたままは嫌な人。
「大切な、人」
思いは実感となり、強く言葉を反芻した。
紆余曲折あったとはいえ、信也は私を独りにはしなかった。
他人ではないと受け入れてくれた。
どう接すればいいかなんて、今だって分かっていない。きっとまた、私は繰り返す。傷つけて、勝手に傷ついて、迷惑をかけて自分に失望する。
だけどもし、それを許してくれる人がいてくれたら?
一度でも、二度でも、私を正してくれる人がいたなら?
「信也は、私の大切な人」
それはなんて素敵なことだろうと思う。そして信也は、私にとってのそれかもしれないのだ。そんな彼が歩み寄ってきてくれたのに、それを易々と手放していいのか?
そんなチャンス、きっともう2度とない。
運命なんて言葉を信じてはいない。仮に信じていても、こんな現実に向ける怨嗟の言葉だ。
だけどきっと、信也は私にとっての唯一無二だ。不思議とそんな確信があった。そう思わせるだけの、想いを受けていた。手放してやっと気づける、自分のなんと愚かなことか。
もう間違えないなんて言えない。そんな自信はないし、迷惑をかけてしまう確信すらある。
信也のことを信頼しきれていない証拠だ。
自分の思いに嘘はつけない。どうしても信也に全幅の信頼を寄せる気にはならない。
それなのに、それ以上の想いは求めてしまう。
「だって、仕方ないじゃん……!」
両親の死を認めたあの日、私を抱きしめてくれた信也に、私は安心したんだ。おばあちゃんとは違うんだって。この人は私を独りにしないんだって。
嬉しかったんだ。そばにいてくれる人がいて。
「信也のことは、嫌い」
何考えてるか分からないし、お母さんとお父さんが死んで泣かなかったし、すぐムキになるし、いびきがうるさいし。
「だけど、一緒にいて安心する」
事実なんだから、どうしようもない。
作ってくれるご飯は美味しいし、朝だって私を起こさないように静かにベッドから降りてるし、部屋は狭いのに女子だからって色々気を遣ってくれるし、お小遣いだってくれたし、門限も作ってくれたし、合鍵だって作ってくれた。
他人じゃないって、言ってくれた。
そうだ。これはケンカだ。だって他人じゃないんだから。
信也にそう思ってもらえなかった時、それが本当の終わりだ。だからまだ、私にできることがあるはず。
「私、帰るね」
「うん。頑張ってね」
少しはマシな顔になれたのか、まひるの表情からは心配は感じなかった。
申し訳なさと安堵。その両方が入り混じった優しい表情。私がまひるのことを好きな理由の一つ。
まひるはきっと、責任を感じてる。だからそれを、私の行動で払拭してあげたい。
「ありがとね、まひる」
まひるに見送られて家を出る。まひるは一緒にと申し出てくれたが、これは私の問題だ。
私が解決しなきゃいけないことだし、そうしたいと思うことだから。
話によると、まひるのお父さんが信也と話をしているらしい。家に帰っても、そこには誰もいなかった。
「はやく、帰ってきてよ」
このまま帰ってこないんじゃないかって不安が渦巻く。
それはすごく嫌で、怖いことだ。
もう、独りにはなりたくない。
だからメールを送った。電話越しだと、何を言ったらいいか分からなかったから。
メッセージですら、素直に言葉が紡げない。
だけど返信は、すぐに来た。
ーーーー
そんなつもりじゃなかったなんてセリフを、橙子と暮らし始めて何度吐いたかもう分からない。
事実ではある。だけどそれは、嘘でないからと、何度も許される免罪符にはならない。
成長しないといけない。前に進まないといけない。
俺と橙子も、互いに互いを理解にしなければいけない。
「ただいま」
「……おそい」
叩かれる憎まれ口。しかしそれが文字通りの意味でないことはすぐに分かった。
橙子の表情に浮かぶのは、大きな不安とそれ以上の安堵。
(それは俺も一緒か)
橙子が帰ってきていた。その事実を改めて確認して、俺は嬉しいと感じたのだから。良かったと、そう思ったのだから。
それと同時に、うまく話せるかという不安。
かける言葉が浮かんでこない。俺はまだ、橙子のことを何も知らないから。
「ーーーー家族とは、思えない」
静寂を破ったのは橙子だった。
「どうしても信也を、お兄ちゃんだとは思えない」
なんてことを言うのだと、話の腰を折ることはしない。
彼女の震える声を聞けば、それが橙子にとってどれだけ重い一言であるかは、容易に想像できた。
橙子はまだ引きずっているのだ。俺が流さなかった涙と、誰からも疎まれたあの1日を。
「信也のことが、キライ」
分かっていたこととはいえ、いざ言葉にされると心に重くのしかかる。気にしていないなんて言えない。俺だって、仲良くできるなら仲良くしたかった。
だけどどうしても、俺たちの間には壁があった。
「だけど、私は、ここにいたい」
ゆっくりと、両者の溝をなぞるように言葉が紡がれる。
簡単に埋まることはないけれど、全てが崩れてしまわないように、ゆっくりとゆっくりと想いは形作られていく。
「他人じゃないって言ってくれて安心した。高校卒業まで面倒見てくれるのも、普通のことじゃないってわかってる。それなのにお小遣いもくれるし、ご飯も作ってくれるし」
堰き止めることができなくなったのか、溢れる涙を拭うこともせず橙子は続ける。
「もう自分でもわかんないの!!信也にどう接すればいいかわかんない!キライなのに!キライなはずなのに……信也と一緒にいたいって……そんなのおかしいのに……!!」
分からない。
その点において、俺と橙子は同じだった。
『信也くんは橙子ちゃんに対して、対等であるべきだと私は思うな』
先生の言葉が脳裏をよぎる。
対等、その言葉の意味を考える。
(結局のところ、俺も橙子も一緒なんだ)
お互いのことを理解していないし、本来ならその人生は交わらないものだったかもしれない。
だけど状況がそれを許さなかった。望まない邂逅に、望まない関係を強制された。
お互いに子供だし、大人だった。
「出ていくなんて言って、ごめんなさい」
とうとう吐き出された、謝罪の言葉。断罪を待つかのような、小さな背中を見て思った。
「仕方なかったよな」
そうだ。仕方ないじゃないか。橙子だって、日々を過ごすだけで精一杯だった。両親が死んで、心も限界だった。俺だってそうだ。橙子とは毛色が違うが、自分でも気づかないうちに、精神的に参ってしまっていたのかもしれない。
俺だって、橙子のことは好きじゃない。
生意気だし、何考えてるか分からないし、ひどい言葉だって沢山吐かれた。
だけど根は良い奴だってことも知っている。
朝起きたらおはようって言うし、帰ってきたただいまって言う。俺が作ったご飯だって、米粒一つ残したことがない。門限だって守ってる。
「いいよ、許すよ」
「……いいの?」
「その代わり、約束をしよう」
「約、束?」
そうだ、約束だ。今回は一方的なものでなく、2人で交わす約束事。
「悪いことをしたら、謝ること」
「……うん」
「ありがとうとか、挨拶を欠かさないこと」
「……うん」
当たり前を積み重ねていこう。きっとそれでしか、俺たちは前に進めない。
「喧嘩をしても、最後には絶対帰ってくること」
すれ違いも仲違いも、きっとこれから、何度も何度も起こるだろう。
その度に嘆いて、叫んで、訴えて。
その度にやり直そう。今日みたいにまた約束をしよう。
「遠慮もやめるか。それこそ、最初の頃みたいのでいい」
憎まれ口を叩きながらも、お互い正直な気持ちをぶつけていた。文句を言って、悪口を言って、だけど素直に思ったことが言えていた。
今はお互いに、余計な気遣いをしてしまっている。
きっとそれは、もう俺たちには必要のないものだ。
「ほんの少しでいいから、お互いに素直になろう」
「……うん!」
してほしいことも、直してほしいことも、少しだけ言葉にしよう。
すぐに全部は無理だとしても、きっとその歩みには意味があるだろうから。
「あーあ。俺は橙子のこと、キライじゃなかったんだけどな」
「にゃ!?ちょ、ちょっと!それを今言うのはズルーーーー」
「傷ついたから、お小遣い減額な」
「なんでよ!!お小遣い減額はどうでもいいけど、さっきのは……さっきのはノーカンでしょ!!私だって、本当はあんなこと言うつもりなかったのに!!」
本当なのだろう。きっと色々橙子なりに考えて、一周回って感情の吐露に行き着いた。最初はただ謝るつもりだったのか、今になって自分の言動が恥ずかしくなってきたか。
「俺も一緒にいたいぞ?」
「ねぇ!!もうやめてってば!!」
顔を真っ赤にして怒る橙子。
まぁなんだ?だいぶらしくはなったかな。
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