3-9

 意識が戻ったのは、病院のベッドの上だった。

警察の話によると、何人かの若い女性達が恋の悲鳴を聞いて駆けつけたのだという。しかし彼女らは、警察を呼んですぐに散り散りになり、逃げ去ってしまったそうだ。きっと、駅に待たせていた彼女達だろう。

 警察の取り調べに、恋はなにも覚えていないの一点張りで通した。どうせ言っても信じて貰えないことがわかりきっていたからだ。

 冷に運命を狂わされた彼女達のその後はわからない。切迫流産で命の危機にあるという女のことも。

 退院してその足で、あのビルに向かった。通い詰めたあの店はもう無くなっていて、看板は取り外されたまま、空白だった。それどころか、ほとんどの店が撤退していた。まるで呪われて壊滅した後のように。

 エントランスからがらんどうのようになったビルを見つめていると、何故か涙が流れてきた。嗚咽を抑えきれない。

 一人で大声を上げて泣いた。失恋の悲しみなのか、愚かなことをした後悔なのか、恐怖から解放されたことへの安堵なのか、それともあの日々を懐かしんでいるのか、もう自分でもわからなかった。

 それから先は、散々だった。

 まともに食事をする気も起きなければ、薬に頼らなければ碌に眠ることすらできなくなった。やっと短く浅い眠りについても、酷い悪夢で魘されて目が覚める。そんな状態だったから瞬く間に体は弱り、仕事も手につかなくなった。そして最後には、まともに出勤することすらできなくなってしまった。

 極度の鬱状態にあることは明白であった。職場からはあっさりと戦力外通告を言い渡され、それもすぐに両親の知るところとなり、結局恋は実家がある片田舎へと帰ることになった。

 正直なところ、帰ってこいと言われて安堵した。もう、この東京という土地にいたくなかったからだ。

 事情を知った両親は娘が乱暴されたと解釈したのか、深く詮索せずに放っておいてくれた。恋には丁度良かった。職探しどころか、もう何をする気も起きなかった。帰郷しても相変わらず食事は喉を通らなかったし、悪夢は止まなかった。毎日ただ幸福だった記憶を反芻しては、後悔を咀嚼して、泣いたり自棄になったりしながら生きていた。

 帰郷してから半年ほど経った日のことだ。その日は憎々しいほどの快晴だった。

 半年間ただひたすら後悔を噛み締めて、恋は一つのことに気づいた。

「あたし、死んだ方がいいんだ」

 死のうと思った。もうこの先、生きていけるとは思えなかった。知らずに犯してしまった罪と、後悔を抱えたまま生きていくビジョンが、何一つ見えなかった。

 やっぱり、他人と心を寄せ合いたいなどと願ったのが間違いだったのだ。そして、自分はもう立つことができない。自力で立てなくなった人間は、もう死ぬしかないのだ。

 着の身着のままで自室を出て、廊下を歩いて玄関に向かった。居間からはテレビの音が聞こえる。両親は仕事に出かけたはずだ。消し忘れたのだろうか。

「今朝未明、新宿歌舞伎町の雑居ビルで、集団自殺が発生しました」

 歌舞伎町と聞いて、否が応にも足が止まった。視線が自然とテレビに向く。

「自殺した集団は「智慧の流星」と名乗る新興宗教で、十代から二十代の女性を信者として集めていました。この集団は歌舞伎町を中心に売春、薬物の取引等を行っていたと見られていました。今回は向精神薬を違法に販売していた容疑で警察が立ち入ったところ、信者と見られる女性約五十人が首を吊って死んでいました。なお、教祖と見られる男は現在逃走中です」

 冷だと思った。何の証拠もあるわけではない。ただ教祖は男である、その一言だけだ。だが、恋にはこの悲劇を引き起こした犯人が冷であると確信していた。

 このままでいいのか、とどこからか声がした。それが恋の頭の中でだけ響いたものなのか、実際に聞こえたものなのかはわからない。もしかしたら、星辰323ビルに取り憑いていた幽霊が恋にとりついて囁きかけたのかもしれない。いいって、なにが。とぼけることはできなかった。

 冷はまだ生きている。あの化け物は、今もどこかの下水道に、空き家に、人々の足下に潜んでいるのだ。どろどろと悍ましく轟きながら。

 このままあれを見逃したら、五十人では済まないくらいの悲劇を起こすかもしれない。

 ならば、死ぬ前に、殺さなければならない。人間の世界に、あの怪物はいらない。

 今度は絶対に惑わされたりしない。一人で立って、一人で戦う。やっぱり、最後に残るのは自分自身なのだ。嫌でも。

 冷を殺さなければ、恋には生きることも、死ぬことも許されない。

 それから恋は実家を出て、フリーライターに転身した。自由が効く身の方が、冷の行方を探すには都合が良かったからだ。

 折りしも日本を衰退させることになる病が流行のピークを迎えた頃だった。智慧の流星なるカルト宗教に散々食い荒らされた歌舞伎町からは日に日に人の姿が消え、灰色のシャッターが立ち並ぶゴーストタウンと化し、ついには完全に廃墟と化してしまった。

 歌舞伎町が崩壊したことでいよいよなんの手掛かりもなくなった。とにかく歓楽街を歩いて探した。一人でそれをするのは無謀だとわかっていた。

 それで編み出したのが、街を彷徨っている若者達の中に入っていくことだった。食事を与えてやったり、しかるべき機関に繋げたりした。困り事を解決してやり、時には人間同士のトラブルの仲裁もした。地道に彼、あるいは彼女等の信頼を得て、様々な情報を得た。そうしているうちに、歓楽街についてルポを書くような仕事も増えていった。

 東京で駄目なら名古屋に行った。大阪に向かい、北海道にも向かった。

 同時に、田舎や辺境の地に向かうこともあった。そうした地には人間に紛れる怪異について伝承が残っていたりもしたからだ。恋にはあの怪物に対抗する力が必要だった。

 とにかく冷を探し、対抗するための手掛かりになりそうな情報がある場所であればどこにでも行った。そんなことをしているうちに、オカルト絡みの記事を書いてくれ、という仕事も増えてきた。恋は敢えて本名で記事を書き続けた。どこかで冷が自分の名前を見れば、始末しようとやってくるかもしれないと思ったからだ。

 そして、三年の月日が経った。新しくできた歓楽街なら、冷が姿を隠すには打ってつけだ。そう思って、恋は三ツ角町にやってきた。


 語り終えた頃には、東の空が白み始めていた。

「そんなの、おかしくないですか」

 一番最初に口を開いたのは黒木だった。

「みんな、その時には納得して貢いでいたんでしょう。それに、実際に片須さんが彼女達から搾取していたわけじゃない。貴方は、なんにも悪くないじゃないですか」

「それについては俺も同意見だ」

 蘇芳が加わる。

「俺、お前が交番に来たとき言ったよな。騙されて毟り取られるなんて自己責任だって。まさしくだ、典型的な自己責任のお手本じゃねえか。お前が命をかける必要なんてない」

「別に、あの娘達への償いだなんて思ってない。ただ、あたしが自分を許せないだけ」

「許すもなにも、貴方に罪なんてないじゃないですか」

「それは他者に判断できることじゃないわ。あたしが自分で納得できなければ駄目なの。先生が流行り物の二番煎じや、妥協した作品を描きたくないのと同じようにね」

 図星だったのか、恋が言うと黒木は俯いて押し黙ってしまった。

「わからねえな」

 蘇芳がぽつりと呟く。

「その化け物のことがまだ好きだっていうならなんとか理解できる。でも、そうじゃないんだろ」

「理解して貰えるとは思ってないわ。現に冷はカルト宗教に手を出して、喰屍鬼グールを操って実害を出してる可能性がある。あたしはそれを阻止したい。それでいいでしょ」

「世界を救うつもりか?」

「別に。ただあんたを脅迫してでも昔の因縁にケジメをつけないと、あたしは生きることも死ぬこともできないの」

 それより、と恋は話を変えた。

「先生のことはどうするの? 逮捕する?」

「……死体もねえ、実行犯は逃げた。どう立件するんだよ」

「そうよね。昨夜のことはお互いに他言無用にしましょう。あたしも才能ある若者の未来を摘み取りたいわけではないし」

 この話は終わりだ。恋は二人に背を向けた。

「おい、どこ行くんだ」

「帰るのよ。喰屍鬼は逃げたし、あたしの話は終わった。あんたも早く戻らないと怪しまれるでしょ、銃持ってきてるんだから」

 恋は改札に向かって歩き出す。背後から、黒木が投げかけた。

「貴方は、片須冷の呪縛を甘んじて受け入れると言うんですか」

 呪縛。言い得て妙かもしれない。

「そのつもりはないわ。ただ、この服に恥じない選択をし続けたいだけ」

「でもその選択の結果、貴方は呪われてしまったじゃありませんか」

「それでもよ。豚以下に成り下がって幸せになんかなりたくない」

 幸せな家畜であるより、不幸な人間であるべきだ。そう言ったのはソクラテスだったか。

「例え破滅するとしても、あたしは人間の選択がしたいの」

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