3-8
恋は彼女たちを伴って、新宿を出る最後の電車に乗った。
「今どこにいる? 一緒に暮らすことについて、話がしたいの」
そうメッセージを送ると、すぐに返事が来た。そして彼が指定してきた場所は、歓楽街でもなんでもない、都内にしてはうらぶれた駅であった。
駅の改札を出ると、携帯が震えた。液晶に表示されたメッセージを見て、恋は一瞬息を呑んだ。
「その人達はそこに置いていって。じゃないと会わない」
思わず辺りを見回す。しかし、彼らしき姿はどこにも見当たらない。一体どこから監視しているのだろうか。恋は彼女たちにメッセージを見せて、ここで待つように言った。
「待ってよ、こっちは別にあんたのことを信用したわけじゃない」
恋に掴みかかった女が食ってかかる。
「このままあんたが冷と逃げないって保証がどこにあるの」
「そうね、ごもっともだわ。じゃあ、これを置いていく」
恋は彼女に財布を突き出した。まさかそんなことをされるとは思わなかったのか、女はたじろいだようだった。
「あんた、馬鹿じゃないの」
「馬鹿だから今こんなことになってるんでしょ」
心が乱れているせいで、その気は無いのに喧嘩を売るような言い方になってしまう。怒るかと思ったが、女はわかった、と引き下がり、恋に財布を返す。どうやら信じる気になったようだ。
「一時間経ってもあたしが戻ってこなかったら、警察を呼ぶなりなんなりしなさい」
そう言って、一人で歩き出す。五分ほど歩いただろうか。前から足音がして、街灯の下に背の高い影がすっと現れた。冷だった。何を言うでもなく隣に立ち、どこへともなく並んで歩く。幸せでもなんでもなかった。
「……あたしは別に、誰かを踏みにじりたいわけじゃなかった」
冷は大きく溜息を吐いた。全てが伝わったのだと、恋は思った。
「あの阿婆擦れ達に何を吹き込まれたの」
一瞬、耳を疑った。彼は、こんな言葉遣いをするような人だっただろうか。ここにいるのは、本当に冷なのか。
「……今、なんて言った?」
思わず歩を止めて聞き返す。
「その痣、阿婆擦れ共にやられたんでしょ」
女に胸倉を掴まれた時に強かに打ったのか、首の辺りに痣ができていた。そこに、冷の手が伸びる。咄嗟に振り払って、一歩後退る。
「ふざけないで、阿婆擦れはあんたでしょ」
不安に押しつぶされそうで、自然と声を荒げてしまう。
「あたしを馬鹿だと思ってるでしょ。客に何も言わずに姿をくらますなんて、他の客とトラブルを起こした以外に何があるっていうの」
もう言い逃れはできないと思ったのか、冷は口を開いた。
「何も言わずに連絡を絶ったのは謝るよ。こんなトラブルになって面倒だし、お姉ちゃんも危ないかもしれないと思ったから、ほとぼりが冷めてから連絡するつもりだったんだ」
「面倒ってなによ、人一人妊娠させておいて」
罪悪感など微塵も感じさせないその口ぶりに、苛立ちが抑えられない。
「何考えてるの? 結婚までちらつかせて、金を騙し取るなんて」
「僕はずっと、お姉ちゃんと一緒に暮らすことだけを考えてたよ」
さも当然とでもいうように彼は言ってのける。
「一緒に暮らすために、お金が問題だって言ってたから。無いものはあるところから持ってくるしかない」
「あたしは、そんなことしろなんて言ってない」
言葉の最後の方は、涙声になるのを堪えきれなかった。
「お姉ちゃん、どうして泣いてるの?」
彼は依然として意味がわからないという様子のままだ。
「飽きられることも、捨てられることも覚悟はしてた。でも、他の娘を踏みにじったことは許せない」
「どうして? お姉ちゃんには関係のないことでしょ」
「どこまで人のことを馬鹿にすれば気が済むのよ!」
「お姉ちゃんが何を言ってるのか全然わからないよ」
駄目だ、話が通じない。同じ言語を使っているのに、まるで会話が噛み合わない。
「お姉ちゃん、僕と一緒に暮らしたくないの?」
「一緒に暮らす? 寄生したかったの間違いでしょ」
吐き捨てるように言った。話が通じない恐怖と、当然のように他者を踏みにじる彼への嫌悪がそうさせた。
「妊娠した娘は、今流産しそうになってる。行って、責任を取ってきなさい。そして二度とあたしの前に顔を見せないで」
「どうしてそんなこと言うの? 僕はお姉ちゃんしか好きじゃないのに。本当に一緒に、支え合って生きていきたいだけなんだよ」
「責任を取るか、このままあたしに警察に突き出されるかの二択しかないわ」
「お姉ちゃん」
「うるさい!」
まさしく姉に駄々を捏ねて泣き縋る弟のような声が、酷く耳障りで鳥肌が立った。
「あたしに弟なんていない、気持ち悪い!」
瞬間、右肩に強い衝撃を感じて、アスファルトに倒れ込んだ。いや、倒れ込んだというよりは、投げ出されたという方が正しい。殴られたのかと思い立ち上がろうとする。だが、肩に激痛が走った。思わず呻き声が漏れる。今まで経験したことのない痛みだ。恐らく、砕けていると本能的に察した。
いくら体格差があるとはいえ、殴られた程度で肩が砕けるはずがない。何かがおかしい。何かが起こっている。
肩に力が入らないせいで起き上がることができない。無様に這いずりながら、なんとか首だけを動かして冷の方を見る。
瞬間、心臓が凍り付いた。
冷の左腕が、ありえない方向に歪に伸びている。腕が捩れて、歪んで、月が浮かぶ夜空に向かうかのように伸びている。街頭に浮かび上がる彼の輪郭が、泥のように溶け出していた。ぐちゃり、と粘着質な音がする。そんな音が、人体からするはずがない。
「僕は──」
そこから先は聞き取れなかった。甲高い、力任せに笛を吹いたかのような、あるいは列車の警笛にも似た、耳に痛い叫び声に変わったからだ。
テケリ・リ!
崩れた泥から、緑色とも、黄色とも判別できない淀んだ色にぎらつく眼球が幾つも現れて、それらが一斉に恋を睨んだ。二つ、三つ、四つ、それ以上の無数の濁った眼球が。
泥は群体のように轟いて、ずるずると恋に迫ってくる。生温いそれが足首を掴んだ刹那、灼けるような激痛に襲われる。喰われる──本能的に、そう思った。
嫌、死にたくない。
自殺しない理由作りに躍起になっていた恋の精神が、そう泣き叫ぶ。その恐怖が、生への執着が、恋に土壇場で力を与えた。地を揺らし、空気を引き裂き、硝子を割るかと思うほどの悲鳴を上げる力を。
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