3-3

 この出来事を切欠に、恋はシンプルに考えればいいのだと思えるようになった。嬉しいか、嬉しくないかの二択で考えるのだ。どうせ、自分に駆け引きなんてものは向いていないのだから。

 実際、この日以降から冷は仕事の前や後に恋を街へ連れ出すようになった。あくる日、喫茶店で仕事終わりの彼を待っていた。現れた彼は、ふらふらと足取りも危うげな様子だった。酷く酩酊しているのは明らかだ。慌てて店員を呼び止め、水を貰う。

「どうしたの? そんなに酔うなんて」

「後輩がすごい量飲まされてたから、助けてきた」

「酷い顔色。もう帰った方が」

「気持ち悪い。無理、歩けない」

 足下も覚束ないようだが、このまま店内で酔い潰れるのは問題だろう。なんとか引きずるようにして喫茶店を出る。

「タクシー呼ぼうか」

「今乗ったら吐く。いや、今ですら吐きそう」

「参ったな」

 心の底から呟いてしまった。男女が逆だったならまだしも、自分に彼を背負って歩くなど無理だ。しかし、路上で吐かせておくのも忍びない。どうにかならないかと周囲を見回すと、ホテル街に続く細い道が目に入った。歓楽街に付き物の安ホテルだ。なんだか後ろめたいが、このまま放っておくわけにはいかない。

「ほら、もう少しだけ歩いて」

 フロントの無愛想な中年女性から鍵を受け取り、部屋に入る。ドアの建て付けが悪いのか、力を込めないと開かなかった。

 部屋に入るや否や、冷は洋式トイレに突っ伏して嘔吐しだした。その隣にしゃがみ込んで背中を擦ってやる。

「ごめん、本当にごめん」

「仕方ないでしょ。吐くのに集中しな」

 別にいいから、と自分も背中を擦ることに集中する。吐いている間中、冷はずっと恋のワンピースの裾を掴んでいた。

 一時間ほど経っただろうか。ようやく落ち着いたのか、冷はベッドに移動し、ぐったりと倒れ込んだ。タオルを濡らして、その額に乗せてやる。

「少しは楽になった?」

 立っているのも手持ち無沙汰で、ベッドと向かい合うようにして置かれた椅子に腰掛けながら問いかけた。答えの代わりに、ベッドに沈み込んだ腕がぬっと動き出し、ふらふらと手招きをする。なに、と近寄ると、強引にベッドに座らされた。膝の上に彼の頭を乗せられる。

「やだ、元気じゃない」

「こうされないと元気になれない」

 膝の上に人の頭があるのはどうも落ち着かないし、こそばゆい。恋の膝の上で二、三度ごろごろと頭を動かして、冷は言った。

「貴方の、お姉ちゃんみたいなところが、とても好きなんだ」

「なに、急に」

 突飛な発言に、聞き間違えたかと困惑する。

「店では余裕ぶってるけどさ」

 恋の困惑をよそに、彼は続ける。

「優しいし、物知りだし、色々してくれるし、お姉ちゃんみたいで、好き」

「お姉さんがいるの?」

「いや、俺が一番上だった」

 だった、と言うことは、弟妹と生き別れたのだろうか。気にはなったが、あまりストレートに訊くのも躊躇われ、遠回しな質問をする。

「何人兄弟だったの?」

「覚えている限りでは、五人、かな」

 今日日珍しい大家族だな、と思った。

「男兄弟? それとも妹ばかり?」

「……覚えてない、昔のことすぎて」

「そう」

 察するに、随分と幼い頃に別れて暮らすことになったのだろう。この歌舞伎町の喧噪の中で、人数も男女の数すらも忘れてしまうくらい遠い昔に。恋はごく一般的と思われる家庭で生まれ育った。それ故に彼がどんな苦労をしてきたのか、想像も及ばない。少しだけ、暗澹とした気分になった。

「あの雨の日、店の中から貴方を見つけた時、どうして僕のお姉ちゃんがこんな街にいるんだろうって思ったんだ」

 一人称が変わり、なにやら話の内容も怪しくなってきた。相当飲まされたのだろう。それこそ、缶を積んでピラミッドを作れるくらいに。

「この街で、貴方みたいな女の子は見たことがなかった」

「君はあたしのことを女の子って言うけど、もうそんな歳じゃないのよ」

「そういえば、知らないや。いくつ?」

「三十」

「驚いた、もう少し下だと思ってた」

「がっかりした?」

「ううん、もっと好きになった」

 隠していたわけではないが、もうあまり声高に言いたくない歳だ。受け入れられてほっとする。

「君は?」

「当ててみて」

「二十三、四?」

「まあ、それぐらい」

 最初の日に、名前が似ていて姉弟みたいだ、と言われたことを思い出す。幼い頃に弟妹と引き離された彼は、雨の中に姉の姿を見たのだろうか。頼ることのできる姉という存在を、夢見たのだろうか。そう考えると目の奥がじんとして、それを誤魔化すために少し長めの黒髪を撫でる。ふわふわとした猫毛だ。

「お姉ちゃん」

 どうやら彼の中で、恋が姉であるということは確定事項となったようだ。

 生憎、恋に姉なるものの気持ちはわからない。上にも下に同胞はいないからだ。だが、なにやら傷のありそうな生い立ちに思いを馳せると、胸が締め付けられるように感じられるのは事実だった。

 その夜を境に、不思議な姉弟ごっこが始まった。店の中では理知的に、余裕ぶった態度を取る冷は、二人きりになると恋を姉として扱い、大いに甘えた。対して恋も、努めて姉らしい口ぶりで話すようにした。姉なるものにはなったことがなくとも、想像力は働く方だ。それはきっと弟を大切に思うもの。あの雨の日からもう、恋にとって冷は大切なものになっていた。

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