3-2
彼に手を引かれて入った店内は、恋が予想していた派手さや喧噪とはまるで正反対の静かな場所だった。黒いソファ、黒い壁と、黒で統一されたシックな内装。大声で騒ぐ客もおらず、時折笑い声が立つものの、耳障りな程ではない。
焼酎の水割りが注がれたグラスを傾け、乾杯を交わす。途端、彼は有無を言わさず恋の右手を握り込んできた。驚いたが、異性に恵まれた人生ではないと言えども、もう生娘ぶるような歳ではない。顔には出さずに、焼酎を煽った。それに、悪い気はしない。
「お名前は?」
「片須レン。
「可愛い名前」
彼は思わず、といったように呟いた。そこに営業や世辞を言っているような気配はない。
「どうも。あんまり自分の名前、好きじゃないけど」
「どうして? そんなに可愛い名前なのに」
「名前ばっかり可愛いから、顔が名前負けするの。それに、一生片思いで終わりそうな名前に見えるでしょ」
実際、愛した男に愛されたことはなかった。皆既に相手がいたか、自分よりも遙かに可愛らしくて、美しい女性の所へ行ってしまった。
「この名前に呪われてる気分」
「それは興味深い話だな」
先程までの甘えた態度から一変して、まるで学者か作家かのような厳めしい雰囲気になる。それでも、恋の手は握ったままだが。
「オカルトに興味があるの?」
彼の反応を見て、恋は問いかける。
「好きだよ。怪奇小説なんかは大好物だ」
「あたしも」
「お化けは怖いのに?」
「本の中からお化けは出てこないもの」
二人して顔を見合わせて笑い合う。話を続けようとして、恋はふと重要なことを思い出した。
「お兄さん、お名前は?」
「ああ、言ってなかったね。冷って呼んで」
「似た名前ね、あたし達」
「そうだね、姉弟みたいじゃない?」
恋と冷。なるほど、そんな趣もあるだろう。
それから暫く、自分でも驚くほど彼との会話は弾んだ。彼の教養はオカルトや怪奇小説に留まらず、古今東西、近現代の文学や映画、サブカルチャーに至るまで、膨大な範囲に及んでいた。特に文学に関しては、その辺の人間より覚えがあるという恋の自負を一瞬で消し去ってしまった。とにかく、話していて飽きると言うことがなかった。
ふと携帯が表示する時刻に目を落とすと、終電の時間が迫っていた。
雨宿りどころか、すっかり純粋に楽しんでしまった。これで数千円しか払わないなど礼を失する行為だと思ったが、財布の中に五千円札一枚しか入っていないという現実を思い出す。
「あの、あたし、本当に今お金持ってなくて」
「大丈夫だよ? 四千円って約束したでしょ」
「そうじゃなくて、とても楽しませてもらったから。それにあたし、最初物凄く失礼な態度だったし」
「そうだった?」
「ほら、ホストのことを、死神かなんかみたいな言い方したでしょ」
恋の言い分を聞くと、冷はまた声を上げて笑った。
「本当に面白いよね、その変わった言い方」
昔から斜に構えているとか、皮肉屋とか批判されてきたこの話し方を、好意的に捉えられるとは思わなかった。
「そんな風に思ってるならさ、また会いに来てよ。今度はもっと沢山お話しよう」
恋が答える前に、彼の手の中には既に恋の携帯がすっぽりと収まっていた。返答を聞きすらせずに、彼は勝手に恋の連絡先を自分の携帯に登録している。
「連絡するから、また絶対に来て。約束だよ」
恋に携帯を返しながら、彼は花咲くように微笑んだ。不思議な子だな、と思った。たった数時間の内に、彼の存在はすっかり恋の中に根付いてしまった。
結局彼に興味を惹かれて、それから週に一、二回程度の頻度で店に通うようになった。それほど流行っている店ではないのか、数時間酒を飲みながら話す程度なら数万で済んだ。最初の頃は、一体いつ数十万を払わされるのかとやや警戒していたが、そんな疑念を吹き飛ばし、恋に腹を括らせる出来事があった。
その日、珍しく店内は騒がしかった。冷の客も多いのか、恋の席を離れてからもう三十分程戻ってきていない。邪魔になるときに来てしまっただろうか、という考えが頭を過ぎる。きっと自分より遙かに金払いが良い客もいることだろう。
彼と過ごせないなら長居は無用だ。冷が戻るまでの繋ぎに話し相手をしてくれていたホストに会計を頼む。すると、恋が機嫌を損ねたと勘違いしたのか、彼は大急ぎで冷の元に走って行ったようだった。話を聞いたのか、冷はすぐに戻ってきた。
「ごめん、怒ってるとかじゃないの。忙しいなら出直そうと思って」
しまった、と思い慌てて弁明する。彼は無言のまま恋の隣に座ったかと思うと、携帯で何かを見せた。周辺の地図だ。
「ここに喫茶店があるんだ」
言いながら、彼は指先で円を描く。
「ここで待ってて。仕事が終わったら、一緒に食事に行こう」
「本当に?」
思わずフロア中に響きそうな声が出てしまった。他のテーブルの客も、何事かと此方に視線を向けている。
「声が大きい」
「ごめん」
そうして店を出て喫茶店で待っていた数時間は、テーブルで待っていた三十分よりも遙かに短かった。真夜中に落ち合うと、二人で並んで夜の街を歩いた。大通りから離れた地味な路地だったが、二人で歩いているというだけで特別な景色に見えたし、胸が躍った。
入ったのは小さな焼肉店だった。彼は甲斐甲斐しく肉を焼いてくれた。
「他の皆はどう?」
丁寧に肉を焼きながら、彼は言った。恐らく、他のホスト達と上手くやっているか訊きたいのだろう。
「皆とっても良くしてくれる。良い人達ばっかりね」
気に入られようと適当に言ったわけではない。恋はホストというものは粗暴で軽薄な男ばかりだと思っていたが、彼等は金にならないだろうに、とても親切にしてくれた。効きすぎた冷房に震えていると、すぐに察してブランケットを持ってきてくれた時は驚いたものだ。
答えてから、もしかして冷は彼等に失敗があって、自分が気を悪くして帰ろうとしたと考えているのではないか、と思った。
「本当に、機嫌が悪くなったから帰ろうと思ったわけじゃないの。忙しいときがあるのは当たり前だし。ただ……」
「ただ?」
「その、君と過ごせないなら別に店にいる意味がないなってだけのこと」
あくまで店に通っているのは彼と会話をするためだ。確かに皆親切だが、それだけだ。
「それって、俺にしか興味がないってこと?」
「興味がないって言うか、店に通うのは君と話すことを目的としてるわけだし」
「滅茶苦茶可愛いね」
「は?」
先程の失敗を生かして、今度は店中に響く大声を出すことは避けられた。
「だって、つまり俺にしか興味がないってことじゃん。凄く可愛い、好き」
「ちょっと、そんなにお肉食べられないし、君の分が無くなるよ」
機嫌を良くしたのか、彼は恋の皿に次々と焼けた肉を放り込んだ。それをいくつか彼の皿に戻してやり、恋は続ける。
「あたし、今とても嬉しいの。まさか二人で歩いたり、食事をするなんてできるとは思ってなかったから」
「それじゃあ、もっと喜んで欲しいから言うんだけど」
つい一秒前まで年相応の若者らしく声を上げて笑っていた冷は、突然笑顔の代わりに真剣な眼差しになった。
「本当はね、今日貴方よりもお金を使ってる人から誘われてたんだ」
「じゃあどうして」
「どうしようかな、って考えたんだけど、貴方と一緒にいたいな、って思ったんだ」
瞬間、店内が静まりかえる。先程まで響いていた笑い声は、鉄板の上で肉が焼ける音に取って代わられた。
「嘘」
「本当」
「嘘よ、嘘」
混乱して言うべき言葉を見失い、疑うような言葉ばかり口をついて出てくる。
「嬉しくなかった?」
「違うの、そうじゃなくて……」
自分の心境を説明する適切な言葉が見つからなかった。自分のために時間を割いてくれたという感謝と、何故そんなことを、という困惑。自分が選ばれたのだと浮かれる浅ましい優越感と、金払いの良いだろう他の客に対する後ろめたさ。そして、もっと金を出すように仕向ける策なのではないかという疑念。正負が入り混じる、名状し難い感情。
「ちょっと、どう言っていいのかわからない」
「簡単なことだよ。嬉しいか、嬉しくないかで答えればいい」
「それなら、あたし」
シンプルな二択なら、迷うことはなかった。
「死ぬほど嬉しい」
彼に自分を喜ばせようという以外の思惑があるとしても、彼とこうして外で自由に行動できるのは、紛れもない幸福であった。
「恋はさっき、二人で歩いたり食事したりできるなんて思わなかったって言ったよね」
「だってこういうのって、売上に貢献した娘への特典みたいなものでしょう」
「それはそうかもしれない。でも、俺は恋とずっとこうしたいと思ってたよ」
箸を落とした。幸い床には落ちず、転がって机の端で止まった。
「そんなに何回も驚かすの、勘弁してもらえる?」
箸を持ち直す。無意味に左側の髪を耳に掛け、食べるのをすっかり忘れていた肉を口の中に放り込む。
「恋は俺と何処に行きたい?」
いざそう問われると困ってしまう。なにせそんなことが実現するとは夢にも思っていなかったのだから。そうね、と考えてみる。折角二人で出かけるなら、彼とだからこそ楽しめる場所がいい。できれば静かな所がいいし、文化的な場所がいい。ただの遊び場所ではないような。
「……彼岸花畑」
東京を出ると、隣県に有名な彼岸花畑がある。死ぬまでに一度は行きたいといいながら、ずっと時期を逃し続けている場所だ。彼岸花畑を歩く冷は、きっと画になるだろう。そしてそんな彼と彼岸花畑を歩けば、どれだけ心が躍ることだろう。
「いいね、すごくいい」
「行ってくれる?」
「約束するよ、必ず行こう」
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