第三幕 片須恋には後遺症だけが残った
3-1
いや、世の中の大部分の人間から見れば、最悪とは程遠い生活かもしれない。安定した職に就き、毎日労働に勤しみ、一人で自活してつつがなく過ごしている。十分幸せなことじゃないかと言う者もいるだろう。それでも、恋にとっては最悪だった。この人生を選択したことを後悔してすらいた。
無理をするなと言いながら、上は次々と過重労働を押しつけてくる。やっと仕事を終わらせたかと思えば、今度は他人の分の仕事まで降ってくる始末だ。調子の良い同僚達は「頼りになるから」などと抜かしながらクレーム対応から逃げ、恋を盾にして地雷の爆風を防いでいる。
恋はうまく立ち回るということが不得手だ。昔からなにかと面倒事を押し付けられるタイプの人間だった。あまりの要領の悪さと鈍臭さに、自分でも嫌気が差していた。
別にこの仕事を愛しているわけでも、やりがいを感じているわけでもなかった。ただ自分が学生の頃には大恐慌と並ぶほどの経済的混乱が発生し、大不況となって就職にあぶれる学生が続出した。そんな中で、偶然内定が貰えたからこの仕事に就いたに過ぎない。
退屈かつうんざりする毎日を生きるために、恋には「刺激」という合法的な麻薬が必要だった。それもできれば途切れることなく投与され続けることが理想だ。
恋は毎晩のように夜の街を彷徨っていた。行く場所は大抵、売れないバンドマン達が集い、演奏するライブハウスだ。客が少ないから、少し通えばすぐに顔を覚えられる。
何かの折に高価な物を差し入れと称してプレゼントすれば喜ばれるし、使い所に困るグッズを買ってそれなりに金を使えばその後の扱いも良くなった。なにより、散財というものは何故か異様に楽しい気分になる。それが気に入ったバンドに対してであれば、尚更だった。
殊更に恋が好んだのは手紙を書くことだった。どのバンドマンも手紙を書くといたく喜んでくれるのが嬉しかった。昔から文章を書くのは得意な方だ。新曲や前回のライブの感想などを綴っていれば、便箋十枚分程度の文章にはなった。
刺激を与えられて、なおかつ承認欲求も満たされる。今振り返れば、実に健全な遊びであったと思う。
その日は、いつもと少し違っていた。終演後、いつも通りステージから下り、帰る客を見送ってくれる彼等に手紙を渡して帰ろうとした。その時、ステージホールを出ようとした恋を、そのバンドのボーカルが呼び止めたのだ。何か失礼があっただろうかと戦々恐々としながら顔を上げた恋に、彼は言った。
「君は、文章を書く仕事をすると良いと思う。受け取る側だけにいるのは、勿体ないよ」
このバンドは、この後すぐに解散した。きっと、話せるときにこれだけは伝えておこうと思ってくれていたのだろう。その時の恋はそんなことを考えもしなかったので、なんでそんなことを言うのだろうと思いながらライブハウスを後にした。
地下から階段を上って地上に出ると、バケツをひっくり返したかのような土砂降りだった。狭いライブハウスに雨宿りをする者を受け入れる余裕はない。だが、生憎周囲には一人で入れるような気軽な店もない。仕方なく、恋は目についたビルのエントランスに走って潜り込んだ。
エレベーターが二台備え付けられたそのビルには、テナントが入っている事を示す煌びやかな看板がずらりとならんでいた。大方上から下までホストクラブでも入っているのだろうと思いながら、看板の上に書かれたビルの名前を何の気なしに見上げた。そして、大いに後悔した。
星辰323ビル。名前だけは知っている。ただし、歌舞伎町で最も飛び降り自殺が多いビル、という悪名だ。ここから飛び降りる者がいない年はなく、今年ですらまだ上半期を少し過ぎたばかりだというのに、既に六件の事件があった。
迂闊だった。歌舞伎町は初めてではないが、ホストクラブには縁遠い。まさかこんな近くにこのビルがあったなんて、全く把握していなかった。確か、二つ並んだエレベーターの、向かって左側の方には髪の長い女の幽霊が出るという噂があったはずだ。
人間というのは単純なもので、一度一つの考えに囚われてしまうともうそこから抜け出すことができなくなるものだ。もう季節は梅雨も過ぎ、夏に差し掛かっている頃だというのに寒気がしてきた。早くここから立ち去りたいのに、雨は一向に止む気配がない。
ふと、暗闇に仄かな光が灯った。エレベーターの階数表示だ。それも向かって左側の。
夜、土砂降りの雨。ロケーションはお誂え向きだ。薄暗い箱の中で、長い髪の女が蹲っているのを想像してしまい身震いがした。ネオンがちかちかと点灯する外側に目を向ける。
これから帰る客の女だ、そうに決まっている。そう言い聞かせながら、目を瞑って身を縮めた。そうしていれば、仮に相手が幽霊であっても見つからないような気がして。
コツ、コツという足音が、背後から徐々に近づいてくる。幽霊に足はないはずだ、と馬鹿みたいなことを考える。コツ、コツと、雨に紛れていたその音がはっきりとしてくる。
足音は、恋の真後ろで止まった。
「ねえ」
声をかけられたと同時に、恋は悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。自分でも驚くくらい、地面と大気を揺らして、硝子を割らんばかりの大声が出た。
「あの……お姉さん?」
頭上から降ってくる声に、恐る恐る顔を覆った指越しに様子を窺う。そこにいたのは髪の長い女ではなく、しっかりと足がついた長身の青年だった。
「ごめんね、驚かせちゃった?」
大きな手が差し出される。その手を借りて、ようやくよろよろと立ち上がった。
改めて見上げると、長めの前髪で顔を半分隠したミステリアスな雰囲気とは裏腹に、まだ少し幼さが残る顔立ちをしている。明らかに恋より五つは年下だろう。背丈は、恋の頭一つと半分くらい差がある。
「ごめんなさい、あたし、すごく失礼なことしちゃった」
「硝子が割れるかと思ったよ」
「本当にごめんなさい。その、幽霊が出たのかと思って」
「何それ、面白い」
青年は声を上げて笑う。
「お姉さん、面白いね。俺とお話しよう」
彼は恋の手を取って、引っ張っていこうとする。反射的に恋は手を引き、後退った。
「嫌、あなたホストでしょ?」
このビルにホスト以外の男がいるわけがない。
「ホストは嫌い?」
「嫌いとかじゃなくて、あたし、このビルから飛び降りる死体の一つになりたくない」
恋の言葉を聞き、青年は怒るどころか、一層大声で笑い出した。
「お姉さん、本当面白いね。今までで一番面白い断られ方だよ」
ああ、面白い、と青年は手を叩いて笑う。
「大丈夫。もう屋上は閉鎖されたから」
「そう……いや、そうじゃない。とにかく、あたしまだ身を滅ぼすつもりはないから」
青年に背を向けて、未だに雨が降りしきる街の方に向き直った。さっさと帰れ、という意思表示だ。だが、青年はそれを無視して肩を抱いてくる。振りほどこうとしたが、長身の彼に包み込まれるようにされると逃げようがない。
「ホストのこと、なんか勘違いしてない?」
「勘違いとかじゃない。あたし、お金持ってないの。ホストクラブって、お高いんでしょ」
言葉の初めから終わりまで事実だ。バンドマン相手に承認欲求を満たされているような自分が、ホストなんて商売人と関わったらはまり込むに決まっている。そして、今の財布の中身は五千円札一枚だ。
「じゃあ、雨が止むまで、無制限で四千円でいい。絶対にそれ以上は取らない」
「謹んでお断りするわ」
「でも、まだ雨止みそうにないよ」
彼の言うとおりだった。雨脚は弱まるどころか、どんどん勢いを増しているような気さえする。
正直、かなり心は揺れていた。青年の顔立ちや雰囲気が、かなり好みだったのだ。雨宿りができて、四千円で好みの男と会話ができる。なにより、ずっと安穏とした道ばかり選んできた自分が、騙し騙される間柄という、少々危険な橋を渡るとしたら。新たな刺激の予感を感じていた。
もう一度。もう一度食い下がってきたら、彼についていこうと密かに決めて、恋は言い放った。
「だったら、止むまで立ってるわ」
「じゃあ、俺も一緒に立ってるよ」
「いや、何言ってるの」
「だって絶対逃がしたくないから。お姉さんタイプだし。服装も、髪型も」
ふざけた様子もなく、淡々と彼は言う。それが逆に、わざとらしくなくて嫌みがなかった。そして、黒と白のフリルで飾り付けられた服装を笑われることはあれど、好みだと言われたのは初めてだ。
「このまま逃がしたら他の男に取られちゃうかもしれないから、絶対逃がしたくない。だから、俺も一緒に立ってるよ」
「……わかった、負けたわ。でも本当にお金持ってないから」
「大丈夫、約束する」
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