2-4
「あの……」
もう一度大きく煙を吸い込んだとき、後ろから声がした。考えに没頭していたせいで不意をつかれ、思わず逆流した煙に噎せてしまう。
「あ……すみません……!そんなつもりはなくて……でも、やっぱり、片須さんだ……」
「……黒木先生……?」
振り返ると、黒い革製のマスクで口元を覆った青年──黒木がいた。ギャラリーカフェで会った時よりは少しラフな格好がしているが、やはり全身真っ黒だ。帽子を被っていない分、表情がわかりやすくはなっている。
「そっか、高円寺にお住まいですものね」
「はい……。ここからも、結構、近いので……」
「今日はお休みで?」
「いえ……作業しようと思って……新しい仕事が入ったので……」
服の上からでもわかるほどほっそりとした両腕が、少々大きめのタブレット端末を抱えている。
「外での作業は気分転換になりますものね」
言いたいことは察していたが、当の本人がまた萎縮したように縮こまってしまったので、彼が言いたかったのであろうことを付け足してやる。良いフォローになったのか、黒木は少し微笑んで大きく頷いた。
「お邪魔じゃなければ、ご一緒しませんか。水煙草の一台くらいなら奢りますよ」
「邪魔なんて、そんな……僕こそ、邪魔じゃないですか……?」
「とんでもない。あたしも、先生の作業風景を見てみたいし」
「あの……それなら……片須さんを、スケッチさせていただいても、いいですか……?」
思わぬ提案に、一瞬度肝を抜かれた。
「あたしを?」
「その……お洋服が、とても珍しいので……後学のために……」
なるほど、と納得する。確かに、この衰退したご時世にこんなに目立つ服を着ている人間はなかなかいないだろう。
「勿論。確かに漫画なら、なにかの参考になれそう」
「ありがとうございます……!」
彼が背負っていた大きなリュックからスケッチブックが出てくる。
楽にしていて良いと言うので、引き続き水煙草を楽しむことにした。鉛筆がスケッチブックの上を滑る音が、静かな店内に響いている。
「そのお洋服、本当に、可愛いですね」
「ありがとうございます。三十路にもなってそんな服、なんて言われたりもするんですけど、どうしても辞められなくて」
「辞める必要なんて、ないです……!」
不意に手を止めて、彼が顔を上げる。彼にしては珍しく、力強さを感じさせる口調だ。
「あの……片須さんに、とっても、お似合いですから……」
言いながら、彼の顔が徐々にスケッチブックに沈んでいく。
「本当に? とっても嬉しい」
「本当です……! 個展でお会いしたときも、言いたかったんですけど……僕、あがってしまって、上手く喋れなくて……」
「ありがとうございます。昔は、原宿辺りにもう少しあたしみたいな子達がいたんですけどね」
「原宿を、知ってるんですか……? いいなあ……」
「あそこももう、廃墟状態なんでしたっけ」
あのファッションの聖地と呼ばれた場所も、流行病によって廃れてしまい、今はシャッターが並んでいるばかりだと、風の噂で聞いていた。
「僕が東京に出てきた時には、もう、なにもなくて……ずっと、憧れてたのに……」
「残念ですね。今はもっと安い金額でそれなりに可愛い服が買えてしまうから、若い子達がこんな服を着る理由は、もう無いんでしょう。あたしはこの格好をしていないと背筋が伸びないから、一生着ているつもりだけど」
「背筋が伸びる、ですか……?」
黒木が鉛筆を動かす手を止め、再び顔を上げる。
「そう。この服に恥じない自分でいなければと思う。みっともないことをしないように、自制心が働く。この服に相応しい決断をしなければいけないと思うし、悲しいことがあっても、家に帰って服を脱ぐまでは、しっかり立っていられる」
あの時もそうだった。美しく華やかなワンピースに恥じない決断をするために、あらゆる弱さを断ち切った。その結果、自分はこうして彷徨うことになってしまった。
「いけない、ごめんなさい。意味のわからないことをべらべらと……」
要らないことを話しすぎた。すぐに詫びると、黒木は首を横に振る。
「いえ、そう言われると、わかるような気がします……。僕も、この格好をしないと、もっと喋れなくなってしまうから……」
「……水煙草はいつ頃から?」
話題を変えようと思い、当たり障り無い話題を振った。
「二年前……東京に出てから、漫画家の仲間に、教えてもらいました……。漫画家は、水煙草を好む人が多いんです。絵と、相性が良いから……」
水煙草は吸って吐くだけだ。絵を描くという作業を邪魔しないから、気分転換には丁度良い。そういうことだろう。
「片須さんは、どうして水煙草を……?」
「三年前に、好きだった男に連れて来られてから。そいつはあたしに何一つ残してくれやしなかったけれど、ここの水煙草が美味しいってことだけが、事実として残ってしまった」
「そう、ですか……」
突然黒木が持つ鉛筆の動きが早まった。鉛筆と紙が擦れて、ガサガサと音が鳴る。
「描けました」
そう言って彼が反転させたスケッチブックには、繊細なレースが写真に写されたかのように見事に再現されていた。
「凄い、袖の辺りなんて、見るからに面倒そうなのに」
「楽しかったです……描いてる内に服の構造も、よくわかりましたし……。良かったら、他の頁も、見てください……」
「いいんですか?」
「片須さんには、見て欲しいんです……」
手渡されたスケッチブックを受け取り、最初の頁を開く。そこには、幻想怪奇と呼ぶべき世界が広がっていた。美しくも妖しい、死の気配が漂うラフイラストの中に、時折実在の人物をモデルにしたのか、写実的な絵が混じっている。全て鉛筆画ではあるが、どれも細部までこだわられた、魂の込められたものだった。
捲られた頁が半分を過ぎた時、突然イラストの毛色が変わった。
今までのイラストからは美術的で耽美に脚色された「死」の気配が漂っていたが、この頁からは血と脂の生臭い匂いが立ち上ってきそうだった。
複数の怪物に群がられ、生きたまま喰われる男の絵。ゾンビかと思ったが、怪物の鼻面は長く、横顔だけなら犬の輪郭に似ている。見たこともない外見の怪物だ。
犠牲となった男の腹は喰い破られ、怪物によって臓物を引きずり出されている。鉛筆書きのモノクロイラストであるにも関わらず、臓物に絡みつく血のぬめりまで描かれているためか、鉄の匂いが漂ってくるような気がした。
無残に喰いちぎられた腕は、怪物の内の一匹が美味そうにしゃぶっている。その腕の皮は剥がれ、肉は削げて、骨は露出していた。
頭の中に、電話で聞いた蘇芳の言葉が再生される。熊にでも喰い殺されたとしか思えない、全身の至る所を喰いちぎられた死体。腹を開かれ、臓物を、胎児をも喰い尽くされた空っぽの腹。
「驚きましたか?」
いつの間に移動していたのか、横から黒木が覗き込んできた。
「ええ。急に画風が変わったなと思って」
「僕、死を美しく描きすぎていたみたいです。だから編集部も流行り物を描かせようとするのかなって思って。だから、醜い死が描けるようになったら、僕の描きたい物を描かせてくれるかもしれないって考えたんです」
今までのおどおどした様子が嘘だったかのように、彼は饒舌に語り始めた。
「最近は美しく描くことばかりに気を取られていました。なにを勘違いしていたんだろう。美しく描けるだけじゃ三流だ。醜く描けてこそ、美しいものが引き立つのに」
小動物のように縮こまることも、何度も頭を下げることもなく、堂々と語る姿。彼を全く知らなければ、これは大物になると感心して聞いていられたかもしれない。だが、あの姿を知っている以上、正気を疑わざるを得なかった。
「この怪物は、何をモチーフに?」
問いかけると、じっとこちらを見つめていた彼の目が急に泳ぐように揺れ出した。
「えっと……夢で見たんです……。こんな感じの、毛のない怪物を……。もしかしたら、何か、漫画とかに影響されてるのかも……」
先程までの饒舌さが嘘のように、途切れがちで、弱々しい喋り方に戻った。今のは自分の思い違いだったのかと思うほどだ。
不自然に思われないよう、次の頁を開く。
今度は風景画のように見えた。路上に千切れた腕と、恐怖と苦痛に歪んで硬直した女性の生首が転がっている。その奥で、怪物がしゃがみ込み、目を爛々と光らせてこちらを見つめている。実に写実的な絵だった。
「ありがとうございます。とても貴重なものを見せて頂けて、光栄ですわ」
それから数時間後、恋は未だに水煙草屋の前にいた。正確に言えば、待っていた。黒木が出てくるのを。
三ツ門町で見つかった凄惨な女の死体。そして彼がスケッチブックに描いていた、喰い殺された人間の絵。偶然にしては、あまりにタイミングが良すぎる。なにより、怪物のモチーフを訊ねた際の反応は明らかにおかしかった。
店内で話していた時はまだ窓から差し込んでいた暖かい日差しは、もうすっかりなくなってしまった。藍色の空と、薄い月がそれに取って代わっていた。寒暖差が激しい時期だ。夕暮れ時の寒さに身震いする。
流石に物陰に隠れ、立ち続けているのも疲れてきた、と思ったとき、水煙草屋から黒木が出てきた。特に警戒する様子もなく、そのまま住宅街の方に歩いていく。気づかれないように、一定の距離を空けてその後を追う。人口の増加で増設された住居のせいでごちゃごちゃとした道を、息を潜めながら進むと、黒木はまだ真新しいことが見てわかるアパートへと入っていった。おそらく、ここが彼の自宅だろう。
すぐに携帯を取り出し、発信する。相手は蘇芳だ。
「今度はなんだ」
心底面倒そうな声を無視して捲し立てる。
「今すぐ高円寺に来て。片須冷の尻尾が掴めるかもしれない。それと、絶対に銃を持ってきて」
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