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自分はお役御免になっただろうが、ネタを逃がすわけにはいかない。あの女が噂の女であると確信できた今となっては尚更だ。それに現場を離れて久しいが、自分とて物書きの端くれだ。こんな面白そうな事象から目を離すことなどできなかった。
女はある程度交番から離れたところで、ジャケットからペンを取り出して一度ノックした。携帯性に優れた短いペンだ。
「君、もしかしてライターか」
「そうよ、まさか同業者?」
すかさず名刺を取り出す。あの曲がり角に差し掛かる前にバーで飲んでいった酒は、もうすっかり消え失せてしまっていた。
「アカシア出版所属のライター、
「結構すごい会社にいるのね」
少し驚いたような風で、彼女も煌びやかなケースから名刺を取り出す。
「
名刺を差し出してきた指には、ダークレッドのマニュキュアが塗られていた。
「あの警官の口ぶりだと、君は若い子を助けて回っているみたいだけど」
「助けて回ると言うか、結果的にそうなってるだけ」
得意になるでもなく、相変わらずつっけんどんに返してくる。緑川は矢継ぎ早に質問を続けた。
「三ツ門街の問題についてルポでも?」
「別にそういうわけじゃない。貴方こそ、アカシア出版のライターさんがこんな時間まで何をしてたの? ネタ探し?」
「いや、ただ仕事に行き詰まって、憂さ晴らしに痛飲していただけだよ」
全くの嘘ではない。新企画のウェブニュースサイトにの企画について悩み、酒を煽っていたのは事実だ。
「だが職業柄、三ツ
「この娘をネタにするつもり?」
「とんでもない。あくまで個人的に、問題の実態を目にしたいというだけだ。後学のためにも」
内心で、ネタにするつもりなのはお前の方だ、とライターの自分が囁いた。
「どうする?」
恋は目を白黒させる少女に問いかける。少女は少し思案した様子を見せた後、か細い声で言った。
「助けてくれるなら、誰でもいいです。あの子の家族はダメだし、店に聞いても知らないの一言で、警察に行ってもあんなこと言われて、あたし、もうどうしたらいいのか……」
途端に、悲痛な嗚咽が漏れ出す。この街に集う若者はその場だけのインスタントな関係だと思われがちだが、彼女らには彼女らなりの友情があるということか。
「わかった。なにかにつけて男がいた方が有利だしね」
恋は言いながらペンを再びジャケットにしまうと、今度はネックレスを取り出した。いや、ネックレスのように見えたが、短いチェーンが取り付けられただけの青い石だ。とても首にかけられそうなものではない。
続けて、彼女は路上に紙を広げた。街頭に照らされたそれは、三ツ門町の地図だった。短いチェーンに、地図──まさか、と緑川は思い当たる。
「まさか、ダウジングで探そうっていうのか」
「よくわかったわね」
「正気か?」
「素面よ。ねえ、友達の私物とか持ってる?」
恋が少女に言う。今まで嗚咽していた少女は泣くのをやめて頷くと、一枚の写真を取り出した。ポラロイドカメラ特有のフィルムに、若い男女が笑顔で写っている。
「この男が例の店員?」
問いかけに、少女は頷く。
「殺人なんて大それたことしそうな顔には見えないけど、果たしてどうかな。とにかく写真があったのは幸運だったわ。これなら見つけられるかも」
言いながら、恋は写真を地図の上に置き、チェーンで吊された青い石をかざす。本当にダウジングで探すつもりのようだ。
彼女はもしかして狂人なのではないか。不穏な気配を纏った疑念が緑川の胸中に浮上する。彼女は精神を病んでおり、誇大妄想に囚われて若者に絡んでいる危険人物なのではないか。だからこの街でも、警官が知っているほどの噂になっているのではないか。
緑川の不安をよそに、恋は慎重に青い石で地図をなぞっている。その横顔は真剣そのものであるが、狂人とはいつだって真剣なものだ。
しかし彼女が狂人だとしたらどうしたものか。このまま野放しにしてこんなことをさせ続けるのはよくないだろうし、すっかり途方に暮れてしまい、弱っている少女を放り出すわけにはいかない。さりとて警察はあの様だ。一体自分はどうするべきなのか──。
脳が回転する思考に集中しかけた時、不意に青い石が揺れた。左右に振れる小さな揺れが、徐々に大きく振れるようになり、チェーンが擦れる音すら聞こえてきた。恋の手を見ても静止しているばかりだ。石を揺らしているような動きは見られない。本当に、彼女の手から垂れ下がっているチェーンと石だけが動いている。掌の筋肉だけで、こんな動きをさせることなどできるわけがない。
「行こう」
乱暴に地図を掴むと恋は歩き出した。おそらく地図上で石が揺れた場所へ向かうのだろう。
先程までとは違う不安が緑川を襲う。事態がどう転ぶかわからないという不安だ。しかしどんな展開だとしても、幸せで愉快なものではないことは間違いなかった。
迷いなく歩いていた彼女は、大通りに繋がる、飲食店で挟まれた通りで立ち止まった。時間が時間なだけに、人影はない。当然、少女の姿などあるわけもなかった。なにもないじゃないかと言おうとして緑川が恋を見ると、彼女の手の中で青い石が激しく振れていた。地図上で見せていた動きとは、明らかに違う。
周囲を見回していた恋が、ある一点で視線を止めた。その視線の先を追う。ビルとビルの間に、不自然にゴミ袋がいくつか置かれていた。鼠達が群がり、穴を開けようとしている。
彼女は二、三度大きく呼吸をしたかと思うと、ビルの隙間に進んでいった。そしてゴミ袋の結び目を解き、地面にぶち撒ける。突然の闖入者に驚いたのか、鼠達はバラバラに散って逃げていった。
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