5.ブルーのワンピース
人の波に押し出される様にして改札を出た途端、涼真はめまいがしました。
慌てて近くの柱に寄りかかり、目を閉じます。
人混みは苦手でした。休日の昼、たくさんの人が行きかう繁華街まで出向くなんて、普段の涼真なら考えつきもしない事です。
でも、今日は特別です。水口先生が、この街のとある小動物カフェへ行きたいと希望したからです。
ふたりでどこかへ出かけるところを学校関係者に見られたら、厄介な事になってしまいます。けれど、学校から離れていて、人混みに紛れられる街中なら、危険性は低いだろうと先生が提案したのです。
先生と外でデートをするのは、これが初めてです。先生を待つ間、期待に胸を躍らせていてもいいはずなのに、涼真の気分は沈んでいました。
僕は先生を幸せにする。数日前に自分が言ったその台詞が、頭を離れないのです。
先生はそれを肯定してくれました。反対に、母親はあからさまに馬鹿にしてきました。
悔しいけれど、母親は間違っていなかった、と涼真は思います。先生を幸せにしたいと願っても、何が先生にとっての幸せなのかすら分からないのです。
先生はいつも穏やかに微笑んでいて、怒ったり悲しんだりもしなくて、どんなに近くにいても未だに謎だらけの存在なのでした。
「星野君」
すぐそばで名前を呼ばれ、涼真は驚いて顔を上げます。
声の主である先生と、目の前にいる女性の姿とが、一瞬結びつきませんでした。
先生は鮮やかなブルーのワンピースを着ていました。ウエストの辺りにリボンがついていて、きゅっと締まっています。
メイクもいつもと違い、入念に施されている印象を受けます。耳には、蝶をかたどった小さなイヤリングがついていました。
「さっきから手を振ってたのに、気づかなかった?」
「ああ、すみません。ちょっと、下を向いてたから。それに……」
先生は涼真の言葉の続きを促す様に、小首を傾げました。くるんと内巻きになっている髪が、胸元で揺れます。
「何ていうか、先生、いつもと違う雰囲気だから」
「そう?」と言いつつも、先生は照れた様に笑いました。やはり、特別におめかしをして来てくれたのでしょう。
「いつもとどっちが好き?」
涼真は戸惑いました。どっちが好きかと訊かれても、どちらも水口先生である事に変わりはありません。
ですが、母親の香水に似た匂いのする今の先生は、いつもと大きく印象が異なっています。
「どちらかというと、いつもの先生の方が好きです」
そう答えると、先生はがっくりと肩を落としました。
「なーんだ。頑張っておしゃれしてきたのにな」
「え、あの、そういうつもりじゃなくて」
慌てて取り繕おうとする涼真を見て、先生はくすりと笑います。
「いいんだよ。星野君はそのままでいいの」
何でもない事の様に言い、「行きましょう」と涼真の手を引いて、歩き出します。
先生はこういう人なんだと、涼真は改めて感じました。『頑張っておしゃれしてきたのに』と肩を落としたって、それすらも冗談で。いつも涼真の数歩先にいて。
先生にとっての幸せなんて、やっぱり掴めそうもありません。けれど、とりあえず今日はそれを忘れ、先生と一緒にひたすら楽しもうと思いました。常に現在の事しか考えない、ヤモリみたいに。
先生の手は以前と変わらず、冷たくて少し湿っています。そんな感触に包まれていると、苦手なはずの人混みも、ちっとも苦にならないのでした。
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