3.冷たく湿った手
一体これは現実なんだろうか。
物の少ない清潔な部屋を見回しながら、涼真は思いました。
装飾品のない真っ白な壁に、グレーのカーペットが敷かれたフローリングの床。昇降式なのだという、木目のソファーテーブル。今自分が座っている、やや硬めで座り心地の良いソファー。そして、低いチェストの上に置かれた、ヤモリの飼育ケース。
初めて見る光景でしたが、どこを切り取っても、水口先生のイメージにぴったりと合います。
当の先生は、すぐそばのキッチンで料理をしています。涼真と目が合うと、にっこりと微笑みかけてくれました。
自分がこうして、先生の部屋で先生の作る料理を待っている事が、涼真には信じられませんでした。
そもそも、告白してからここに至るまでの展開が早すぎました。先生が告白を受け入れてくれた事自体、未だに信じられないのに。
最初のデートに誘ってくれたのは、先生の方でした。デートといっても、外で会うと学校関係者に見つかる危険があってまずいのだと、先生は言いました。
それは分かるけれど、だからといって自宅に招かれるなんて。
これまでにない高揚感と緊張感に襲われつつも、涼真は住所と部屋番号を教えられたマンションへ向かいました。
部屋のドアを開け、迎え入れてくれた先生は、だぼっとしたスウェットを着ていました。明らかに部屋着だと思われるその姿で、いつもの先生らしく「こんにちは」と迎え入れてくれたのです。涼真は気が動転してしまいました。
一方の先生は、少しも慌てた態度なんて見せません。むしろ、挙動不審になってしまう涼真を「どうしたの?」とからかうくらい、余裕がある様です。
その事が、涼真には情けなくもあり、少々不満でもありました。
「おうどん、出来たよ」
キッチンからの声に振り向くと、先生がどんぶりばちの載ったトレイを運んでくるところでした。
昼食の準備を整え、涼真は先生と隣り合って座りました。先生にならってきちんと手を合わせ、「いただきます」と言って箸を取ります。
それは、しょうがと刻みねぎが乗っているだけの、シンプルなかけうどんでした。
ひと口啜って、絶品だ、と涼真は思いました。だしがよく効いていて、麺はもちもちしています。
「すっごい美味しいです」
素直に涼真は言いました。先生は口元を隠し、くすくすと笑っています。
「優しいなぁ、星野君は。おうどん茹でただけで褒めてくれるんだもん」
「だって、本当に美味しいから。わざわざ作って下さって、ありがとうございます」
「こちらこそ、食べてくれてありがとう。今度はもっと手の込んだ物、食べさせてあげるからね」
そう言って微笑む先生の目に、涼真は違和感を覚えました。
それはとても優しい目でした。まるで我が子を見つめるかの様な、母性が籠められていました。
先生にとって自分は、恋人と呼べる存在ではないのかも知れない。涼真はそんな気配を、肌で感じました。
うどんを食べ終えると、先生は飼っているヤモリを紹介してくれました。
最初、飼育ケースの中には何もいない様に見えました。先生はそこに手を入れ、「おいで」と呟きました。
すると驚いた事に、流木の様な置物の陰から、のそのそとヤモリが現われたのです。ヤモリは迷いなく、先生の手に乗っかりました。
「これが、うちのニホンヤモリ。名前は大食漢っていうの」
先生は再び涼真の隣に座り、ヤモリの載った手の甲を差し出して見せてくれます。
大食漢、という変な名前をつけられたそのヤモリは、ペットショップにいたものより小さく、くすんだ色をしています。
「可愛い……先生に
「そうなの。ヤモリが人間に懐くなんて、珍しいんだけどね。あ、星野君もこの子にくっつかれたい?」
くっつかれたい、というのも妙な質問だと思いましたが、涼真は頷きました。
「ヤモリって、直接掴み上げたりするとストレスになっちゃうから。自然にくっついてくるのを待つ方がいいの」
そう言って、先生は涼真に手を出す様、促しました。言われた通り、手のひらを上に向けて差し出します。
先生はヤモリを甲に載せた手を、涼真の手に重ねました。
涼真はどきりとしました。白くて柔らかそうなその手に、釘づけになります。
「星野君の方に行って」
先生はそう要求しましたが、ヤモリは最初に出てきた時の様にすんなりと動こうとはしません。
「なかなか行ってくれないね」
そう呟くと、先生は涼真の手をそっと握りました。思わず声が出そうになるのを、涼真は何とか堪えます。
ひんやりと冷たく、微かに湿り気を帯び、やはり柔らかい感触がしました。
涼真は顔を上げて何か言おうとしましたが、先生は目を伏せ、じっとヤモリを見つめています。きらきらと輝く目で。
「駄目だ、やっぱり動かない。どうしようかな」
「先生」と呼びかけると、そのきらきらした目が涼真を見上げます。
そのまま涼真が黙っていると、「ん?」と先生が首を傾げました。ヤモリを載せた手は、繋がれたままです。
「僕の事、男として見てないんですか」
どう言っていいか分からず、直球で尋ねると、先生は意表を突かれたという風に笑い出しました。
「え? どういう事?」
「だって、自然にこういう事するじゃないですか。手を繋いだりとか。いきなり家に誘ったりとか……」
「それは、星野君と付き合ってるからだよ。じゃなかったら、こんな事しないよ」
「そうですけど、そういう事じゃなくて。お付き合いする事になって、まだそんなに日も経ってなくて、僕はずっとどきどきしてるのに、先生は何も感じてない様に見えるから」
「ああ、ごめんなさい。ちょっと距離を測り間違えちゃったかな」
ようやく先生は手を離しました。涼真の手のひらから、柔らかい感触が失われます。自由になった手を閉じて、涼真は問い直します。
「正直に言って下さい。僕の事、恋人じゃなく、子供として見てますよね」
「ううん、子供だとは思ってないよ。でも……そうだね、どきどきはしないかな」
先生はあくまで穏やかな調子でした。その言葉に、涼真は心を掻き乱されているというのに。
「私、もう何年も恋愛ってしてないの。だから星野君だけじゃなくって、誰に対してもどきどきしなくなっちゃったの。それでも星野君と付き合いたいって思ったのは、私にとって特別な人だからだよ」
そう言って、先生は何の屈託もなく、にっこりと笑ってみせます。
耐えきれなくなって、涼真は先生の体に覆い被さる様にして抱き着きました。
先生は小さく悲鳴を上げ、ソファーに倒れ込みました。けれど、楽しそうな笑顔のままでした。
「どうしたの?」
「……すみません。どうしていいか分からなくて。僕、本当に先生の事が好きだから」
「だったら、このままでいいじゃん。私も星野君が大好きだよ」
先生は涼真の首に片腕を回し、もう片方の手で頭を撫でました。
「それじゃ駄目なの?」と、一切の邪気を含まない声で、先生は尋ねるのでした。
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