2.放課後、実験準備室
鎖骨を隠すほどに伸びた髪には、ぱさぱさと潤いがない。機械的にブラシを通しながら、ふと鏡の中の自分を見つめる。
能面ババア。以前、こっそり聞いてしまった生徒からの陰口を思い出し、思わず顔をしかめる。
ひどいあだ名だけれど、案外しっくりくるな。目の前に映る自分の顔を見つめ、絶望的な気分でそう思う。
青白い顔のあちこちに、シワやたるみが目立ち始めている。40歳というのはこういう年齢なのだと、改めて痛感させられた。
「だから何だっていうの」
挑む様な気持ちで呟いてみる。自分が老けたからといって、誰も不幸にはならない。“俺の隣ではいつも綺麗でいろ”なんて、昭和歌謡みたいな価値観を押しつけてくる男とは、5年も前に別れている。
ブラッシングを終えると、ゴムで無造作に髪をまとめ、リビングに戻る。
リビングの壁には、今日着ていたスーツが一着、ハンガーに掛けてあった。袖にはチョークの汚れが付いている。
その汚れを落とす方法を、聡美は知っている。知ってはいるが、行動に移すのは面倒だった。
明日は別のスーツを着ていこう。今やるべきは、晩酌だ。
冷蔵庫から一升瓶を、食器棚からグラスを取り出し、テーブルに置く。ソファーの上であぐらを掻き、グラスに日本酒を注ぐ。
グラスの半分ほどをひと息で飲み、はーっと息を吐く。一日のうち、もっとも幸せな時間。
この時間を共有してくれるのは、唯一の同居人である
聡美は今日も、飼育用のプラスチックケースに手を入れ、「おいで」と呼びかける。
大食漢――と、聡美が名づけたニホンヤモリ――は、それだけで聡美の手のひらに、進んで乗ってくる。
ネーミングに大した意味はない。餌の喰いっぷりが良かったのだ。こちら側が勝手につける名前なのだから、深く考える必要はないだろうと聡美は思っている。
重要なのは、この子が同じ時間を共有してくれる仲間だという事。
「今日も疲れたよ」
そう語りかけてみても、大食漢は動じない。聡美の肘の内側辺りまで這い上がり、じっとしている。
ニホンヤモリの体は小さく、色もすすけた様な灰色で目立たない。聡美行きつけのペットショップにいる、レオパードゲッコーという種とは、同じヤモリでもまるで真逆だ。あのレオパは、大きさも大食漢の倍くらいあるし、何より鮮やかな黄色の
レオパの姿を思い浮かべていると、自然に星野君の眼差しも浮かんでくる。
膝を曲げて中腰になり、ショーケースの中のレオパを眺めている時の眼差し。聡美に気づき、視線を合わせたり逸らせたりする時の眼差し。彼のまつ毛には、いつも長い前髪が掛かっている。
ここ1週間ほど、聡美は仕事帰りに毎日、星野君と顔を合わせている。彼はレオパをきっかけに、ペットショップにいる色んな生き物達に興味を持ち始めているらしかった。
聡美は喜ばしく思った。若者が新たな世界への扉を開くのは、素晴らしい事だ。
思えば、聡美が教師になったのも、生徒に新たな興味の対象を提供したいという理由からだった。かつて聡美自身が、高校の生物教師から、学問として生き物を学ぶ面白さを教えられた様に。
だが、聡美は今のところ、高校時代の恩師の様な存在とは程遠い。教師生活が長くなるにつれ、面白い授業をやりたいという意気込みは失せ、ただ教科書をなぞるだけのスタイルに収まりつつある。
それでも仕方ないのだと、聡美はどこかで諦めていた。自分にはこういうスタイルが性に合っているのだから、仕方ない。その結果が“能面ババア”というあだ名なのだとしても。
それに、若者が新たな物事に出会うきっかけは、何も学校だけにある訳ではない。星野君みたいに、たまたま訪れた場所で思いがけない出会いをする事もあるはずだ。
聡美は再び、星野君の事を思い浮かべる。
『先生のヤモリに、会ってみたいです』
今日、いつもの様にペットショップで会った星野君は、そう言っていた。聡美がヤモリを飼っているのだと話したあとだった。
本当に会わせてあげられたいいのに、と思う。折角興味を持ってくれたのだから、うちの大食漢にも会わせてあげたい。
でも、それは出来ない。学校にヤモリを連れ込む事は出来ないし、学校外で個人的に生徒と会うのも問題だ。
聡美は憂鬱な気分になる。彼とペットショップで毎日顔を合わせている事も、本来は問題なのかも知れない。
グラスに残った酒をぐいっと
「どうだっていいよね、規則なんて」
言いながら、聡美は大食漢の体にそっと触れる。
きっと明日も、聡美は星野君と会い、ぎこちないけれど楽しい会話をする事になる。
聡美は驚いていた。
星野君が自分へ向けてくれる好意に、気づいていなかった訳ではない。ただ、あくまで教師として、好ましく思われているだけだと考えていた。
「先生が好きです。付き合って下さい」
まさかそんな事を言われるなんて、思ってもみなかった。
学校帰りの夜にペットショップで会ったあと、いつもなら店内で別れるのに、今日は彼が外までついてきた。何やら様子がおかしかったので、どうしたのかと尋ねようとした時、その言葉が飛んできた。
聡美が何も言えずにいると、彼は急いで言葉を継いだ。
「突然こんな事言ってすみません。でも、学校とこの場所でしか会えない事が、もう耐えられなくて。もっと一緒にいたいんです。先生の家に行って、ヤモリを見たりしたいし、色んな事を話したいんです」
あまりにもストレートすぎる告白の連続に、聡美は更に硬直してしまう。
こんな風に感情を表出する事が、苦手な人だと思っていた。というか、実際苦手なのだろう。
でも今は、無理やりその壁を破ってくれたのだ。聡美の為に。
一体どう返事をすればいいのだろう。戸惑い、視線を泳がせていると、遠くの人影に目がとまった。
陽気にふざけ合っている、高校生の集団。うちの学校の制服だ、と気づいた途端、体が勝手に星野君から遠ざかっていた。
「先生?」
あとずさりする聡美を見て、星野君は困惑した表情を浮かべる。
きちんと説明してあげたいけれど、今は見つかる前に、早く別れなくてはならない。万が一学校に報告されたら、厄介な事になる。
「ごめんなさい、今はまだ返事が出来ないの。明日の放課後、生物実験室に来てもらえる?」
彼が頷くのとほぼ同時に、聡美は続ける。
「じゃあ、お願いね。また明日」
そう言い置くと、足早にその場を去った。
放課後の実験準備室には、窓から穏やかな日差しが差し込んでいる。
ゆっくりと宙を舞うほこり。水槽の中を泳ぐメダカ。薬品とほこりと、植物のみずみずしさが混じり合った匂い。
大きな道具棚に圧迫されたこの部屋は、狭いながらに独特の居心地の良さがある。ここでなら、落ち着いて星野君と話が出来るだろう。聡美は低い丸椅子に座り、パンツスーツに包まれた脚を伸ばす。
丁寧に説明すれば分かってくれるはずだ。教師と生徒という関係上、付き合えない決まりになっている事を。
それで駄目なら、聡美自身を理由にすればいい。星野君からどう見えているのかは分からないが、聡美はただのアラフォー(というかジャストフォーティー)の女なのだ。仮に付き合ったとして、
そう話してもなお食い下がってくる様であれば、はっきり言うしかない。星野君に恋愛感情を持つ事は出来ない、と。年齢ではなく、フィーリングによる問題で。
聡美が思う恋愛とは、“この人と溶け合って、ひとつの生き物になりたい”と感じる事だ。5年前に別れた男に対しては、確かにそんな感情があった。
星野君に対する思いは、それとは全然違う。彼は、自分とは別の素敵な生き物であって、溶け合う事など考えられない。
でも本当に、素敵な生き物だ。
そんな事を考えているうちに、隣の実験室のドアが開く音がした。実験室の方を覗くと、緊張した様子の星野君がいた。
昨夜のラフな私服姿とは違い、シワひとつない制服のシャツを着ている。それは聡美に、彼が自分の生徒なのだという実感を湧き上がらせた。
「こんにちは」と声を掛けると、かすれ声で「こんにちは」と返ってきた。
「来てくれてありがとう。こっちでお話してもいいかな」
準備室を指し示して問うと、「はい」と固い返事があった。
椅子に掛ける様すすめ、聡美は星野君と向き合って座る。窓際に座った星野君は、日差しを受けて輝いて見えた。
彼は、聡美の目を見ていない。その少し閉じ気味の目に、長い前髪が掛かってしまっている。
切ってあげたいな、と思った。もし彼を自宅に招き入れる事が出来たなら、その前髪を適切な長さに整えてあげたい。
それに、手料理を振る舞いたい。もちろん大食漢にも会わせてあげたい。
そしたら彼は、どんな反応をするだろう。髪を切られた事に照れ、聡美のあまり上手とはいえない料理には、困惑しつつも出来るだけ完食しようと努め、大食漢と触れ合えば笑顔になってくれるかも知れない。
目の前の星野君を、改めて見据える。膝の上に置かれた手が、微かに震えている。
彼に説明しようと用意していた言葉が、聡美の頭から泡の様に消えていった。
「付き合っちゃおうか、私達」
代わりに出てきたのは、そんな軽々しい
彼は驚いた様に顔を上げた。その大きく見開かれた丸い目に、聡美は思わず微笑んでしまう。
やっぱりこの人は、素敵な生き物だ。
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