1.ペットショップの隅
初めてそのペットショップを訪れた夜、
店内に足を踏み入れた涼真は、その広さと、動物の多さに圧倒されました。
平日という事もあってか、お客さんはぽつりぽつりとしかいません。まるで動物達が場を支配しているかの様な、不思議な空間でした。
涼真は特にペットに興味がある訳ではなく、夕食後の散歩ついでに立ち寄っただけでした。ちらっと覗いて帰るつもりでしたが、どんな生き物がいるのか気になり、一通り見て回る事にしました。
入ってすぐのところには、ショーケースに入れられた犬や猫がいます。それらをぼんやり眺めながら、涼真は奥へと進んでいきます。
動物の種類の豊富さは、涼真の想像をはるかに超えるものでした。ハムスター、うさぎ、オウム、フクロウ、熱帯魚や昆虫までいます。
たくさんの生き物の存在は、涼真に不思議な安心感を与えました。自分達人間だけが特別な存在ではないのだと感じられました。
それにしても色んな種類があるものだ、と感心しながら歩いていると、いつのまにか最奥の隅にある、
涼真はそのコーナーをざっと眺めたら、店を出ようと思いました。
しかし、そこにある女性がいるのを見つけ、足を止めます。
その人が着ている紺のパンツスーツに、見覚えがありました。まだ残暑の季節だというのに、スーツのボタンはきっちり閉まっています。袖には、チョークの粉らしき汚れが付着していました。
もしかして。涼真は彼女の姿を、まじまじと観察します。
彼女がこちらに気づく様子はありません。ショーケースの前で小腰を屈め、中にいる爬虫類を食い入る様に見つめているからです。
横顔は、まっすぐなセミロングの髪に隠れています。涼真がやきもきしていると、彼女は髪をさっと耳に掛けました。
現れたのは、化粧っ気がないにも関わらず、抜ける様に白い肌。やはり、それは水口先生でした。
水口先生は、涼真の所属する1年2組では、生物基礎の担当です。常に真顔で授業をする人なので、一部の生徒からは“能面ババア”と呼ばれています。
涼真が思うに、水口先生は真剣になると、ついつい怖い顔になってしまうのです。授業に没頭してしまい、表情やその他の事にまで気が回らないのでしょう。頻繁にスーツをチョークの粉で汚してしまうのも、その証拠といえそうです。
涼真は、先生のそういう部分を好ましく感じていました。
だからといって、こんなところでプライベートの先生と遭遇してしまうのは、気まずい事この上ありません。何せ、まともに会話を交わした事すらないのです。
涼真は、先生に見つかる前に店を出て行こうと思いました。
ですがその時、先生がふっと顔を上げました。ぱっつん前髪の下の黒々とした瞳が、涼真の姿を捉えます。
涼真は反射的に頭を下げました。挨拶というよりは、謝罪に近い気持ちでした。
先生は、元々大きい目を更に大きく見開きました。そして意外にも、ふんわりと柔らかく微笑しました。
「こんばんは」
授業中と同じ、涼やかに響く声でした。気まずさとか嫌悪感とか、そういった感情の一切感じられない挨拶です。
「こんばんは……」
涼真も同じ言葉を返しました。その声は小さく、気まずさや恥じらいを感じさせるものとなってしまったのが、自分でも分かりました。
先生はそんな事を気にする様子もなく、一歩だけ距離を詰めます。コツ、と控えめに、パンプスが足音を響かせます。
「ひとりで来たの?」
「え……はい」
先生は「そっか」とあっさりした返事をし、再びショーケースの方に視線を戻しました。
先生が見ている生き物は、ヤモリとかトカゲとか、そういった類のものに見えました。
ケースの下にある掲示には、“レオパードゲッコー(ヤモリ)”と記されています。やはりこれはヤモリで、恐らくその中でもレオパードゲッコーという種類なのでしょう。
「面白いよね、ここ。色んな生き物がいて」
先生はひとり言の様にそう言いました。ヤモリを見つめる瞳が、店内の照明を受けてきらきら光っていました。
「ああ……」と涼真はあいまいに返事をし、「じゃあ」とあとずさりをしました。
先生はまた涼真の方を見て、「さようなら」とまっすぐに別れの挨拶をしました。その頬には、やはり柔らかい笑みが浮かんでいました。
家に帰り、学習机に向かって問題集を広げても、涼真の頭は水口先生の事でいっぱいでした。
『こんばんは』『ひとりで来たの?』『面白いよね、ここ。色んな生き物がいて』『さようなら』
投げかけられた言葉全てを、鮮明に思い出す事が出来ます。
あんなに気さくに話しかけてくれる人だったなんて。涼真は、今まで知らなかった彼女の一面に驚きました。
それにあの、ヤモリを見つめている時の、輝いた瞳。学校にいる時はいつも疲れた様な目をしているのに、さっきはそんな感じを一切受けませんでした。
学校の外では、先生は僕の全く知らない人生を生きている。涼真はそう考えました。当たり前の事ですが、とても新鮮な気持ちで、その事を理解しました。
きっと素敵な人生なんだろう。僕には関係のない事だけれど。
涼真は問題集を閉じ、ベッドに飛び込みました。
枕に顔を埋めながら、涼真は自分の人生について考えます。何の夢もない、くだらない人生。
涼真の通う高校は、いわゆる進学校です。周りの友達にはみんな、将来の夢や、憧れの大学があります。そんな進路に向って、必死に勉強をしているのです。
涼真には、そういうきらきらしたものはありません。
涼真の兄は、両親に医者になる事を期待されています。
涼真は、両親に期待も心配もされず、放任されています。自分が出来損ないだからだという風に、涼真は感じています。
勉強を頑張ったからといって、人生は好転しない。自分には何もないのだから。
そんな事を考えながら、涼真はそのまま眠りにつきました。本格的な眠りがやってくる寸前、水口先生の夢を見ました。
翌日の夜、涼真はまたペットショップへと足を運びました。
他の動物達には目もくれず、爬虫類コーナーへ直行しました。でも、ヤモリやカメレオンのいるショーケースの前には、誰もいません。
いつもヤモリを見ているとは限らない。そう思って店内を一周してみましたが、先生の姿はありませんでした。
目的を失った涼真は肩を落とし、何となく爬虫類コーナーに戻って行きます。
ショーケースの中段辺りに、黄色いヤモリがいます。昨日先生が見ていた、レオパードゲッコーというヤモリです。
ヤモリはゆっくりと、ケースの中を這っています。のしのし、と言っていいのか、ぺたぺた、と言っていいのか。
顔を近づけてよく見ると、ヤモリの丸い目の真ん中には、一本の縦線の様な瞳孔があります。
正直なところ涼真は、この生き物を不気味に感じています。けれどほんの少しだけ、可愛いなと思う気持ちも芽生えていました。水口先生が見ていたものだからでしょうか。
先生は、何を考えてこのヤモリを見ていたのだろう。生物学的視点で? あるいは、ただ好きだから眺めていただけなのか?
涼真はぼんやりとヤモリを見つめながら、先生の視点を想像します。
「その子が気に入った?」
突然背後から声がして、涼真は飛び上がる様にして振り返りました。
ちょっと申し訳なさげに肩をすくめ、先生がそこに立っていました。
「ごめんね、驚かせちゃって」
「あ、いえ」
先生は珍しいものでも見る様に、涼真をまじまじと見ています。
その瞳があまりにも大きく、吸い込まれそうな気がして、涼真は
先生のパンプスを履いた足が、軽やかに床を移動し、ヤモリのショーケースの前で止まります。
「星野君、ペット飼いたいの?」
突然名前を呼ばれ、涼真は驚いて顔を上げました。先生はヤモリを眺めています。
先生にとって涼真は、授業を受け持っている数クラスのうちの、平凡な一生徒にすぎないはずです。それなのに、名前を覚えてくれていた。
その事が衝撃的で、嬉しくて、でもそれを悟られてはいけないと思いました。それで、平静を装って返事をしました。
「そういう訳じゃないんですけど」
「じゃあ、ただ動物を見るのが好きとか」
「いえ、そうでもなくて」
「だったらどうして、今日もここに来たの?」
涼真は返答に詰まりました。素直に答える事が出来ません。
先生は涼真を見て、くすっと笑いました。
「分かった、私と同じパターンでしょ。この子の魅力にとりつかれちゃったんだ」
弾んだ声で先生は言いました。この子というのは、ヤモリの事なのでしょう。やはり、先生はヤモリが好きな様です。
自分もヤモリが好きだという事にすれば、先生に変に思われずに済みます。けれど、涼真はそうしてごまかしたくはありませんでした。水口先生にだけは、嘘を
「ヤモリには興味はありますけど、好きってほどではないです。何となく家にいたくなくて、行く場所がないから、ここに来ました」
初めて中身のある言葉を発した涼真に、先生は少し目を見開きました。
「そうなんだ」
それからしばらく、ふたりの間に沈黙が流れました。控えめな音量の店内BGMが、はっきりと聞こえてきます。
涼真は気まずくなり、またもや俯いてしまいました。
「ここにいるのは楽しい?」
予想外に明るい声で、先生が尋ねました。
「うーん……楽しいというか、楽な感じがします。人が少なくて、代わりに動物がいっぱいいて、そういうのが何か、落ち着くっていうか」
そう話しながら、涼真は自身の言葉に驚いていました。自分がこの場所にいて楽だとか、落ち着くとかいう事を、今まで意識していなかったからです。
けれどこの場所は、確かに涼真にとっては安心な場所です。水口先生の存在も、その一部でした。
先生はにっこり笑いました。くしゅくしゅした笑顔でした。
「私もそうなの。だから、仕事が終わったらここに来るの。最近は、ほとんど毎日そうしてる」
「えっ、そんなに来てるんですか?」
「うん。星野君も、ここの常連さんになっちゃうかもね。全くお金を落とさない常連さん」
茶目っ気たっぷりに冗談を言う先生につられ、涼真も思わず笑ってしまいました。
本当にここの常連になりたい、と思いました。先生と一緒に。
「先生は、いつもヤモリを見てるんですか」
「そうね。気づいたらこの子の事、見に来ちゃってるから。他の生き物にも興味はあるんだけど、やっぱりヤモリって格別に面白いし」
「そうですか」
ヤモリは格別に面白い。涼真には、先生のその感覚がまだ分かりません。よく観察していれば、いずれ分かってくるのでしょうか。
ショーケースに目を移すと、ヤモリが丸い目の奥の細長い瞳孔で、涼真と先生を見ています。
「ヤモリはね、きっと今の事しか考えてないんじゃないか、って思うの」
「え?」
先生は授業の時と同様に、真面目な表情をしていました。
「人間みたいに、将来の事を考えて不安になったりしないの。常に今を充実させる事が一番大事。受験の事ばかり考えてる学校のみんなとは、真逆だと思わない?」
「はぁ……」
涼真は戸惑いました。この小さな生き物と人間とを、同列に語る先生の考え方に、ついていけなくなったのです。
「ごめんなさいね、変な話して」
「いえ、そんな事は」
「私、金曜の夜ってテンション上がっちゃうんだよね。それで、喋らなくていい事までぺらぺら喋っちゃうの」
先生はさらりと笑い、「それじゃあ、良い休日を過ごしてね」と、踵を返しました。
「あの」
考えるより先に、涼真の口から声が飛び出しました。先生が振り返り、髪の毛先が肩の下で揺れます。
先生は、仕事終わりにここに来ると言いました。という事は、きっと休日には来ないのでしょう。先生の休日に、自分が入り込む余地はありません。
「月曜になったら、またここで会えますか」
我ながら馬鹿げた質問だと思いました。けれど、そう訊かずにはいられませんでした。
平日のこの時間だけでいい。先生と過ごす時間が欲しい。切実にそう願っていました。
先生は困った様に小首を傾げ、それでも優しい目で涼真を見つめています。
「私じゃなくて、この子達に会いに来るのはどうかな。星野君の事、待ってるだろうから」
思いがけぬ言葉に固まる涼真に、先生は「さようなら」と背を向けます。
「また月曜日に」と、先生が小さく言い残したのを、涼真ははっきりと聞き取りました。
学習机の木目をじっと眺めながら、涼真は先生の言葉を回想していました。
『私じゃなくて、この子達に会いに来るのはどうかな』
それは、涼真の思いを遠回しに拒否する言葉である様にも思えます。
先生という立場を考えると、拒否するのも当然なのかも知れません。先生と生徒が、学校以外の場所で約束して会うなんて、明らかに
でも先生は、『また月曜日に』と言いました。あれは、約束ではないのでしょうか。
涼真はかぶりを振りました。一体、いつまでこんな事を考えているのだろう。早く勉強をしないと。
そうだ、今日は生物基礎の予習をしよう。そう思い、教科書を開きます。水口先生が愛する生き物達の世界が、そこに広がっています。
ふと、先生の言葉をまた思い出しました。
『ヤモリはね、きっと今の事しか考えてないんじゃないか、って思うの』
『人間みたいに、将来の事を考えて不安になったりしないの。常に今を充実させる事が一番大事』
将来の事は考えず、今を充実させる。それは、ひとりで進路に縛られてがんじがらめになっている涼真にとって、魅力的な考えでした。
自分もそうしてみよう、と涼真は思います。今、自分が生物基礎の教科書を開いたのは、成績や進路の為ではない。先生が見ている景色を、少しでも理解する為。
そう思うと、勉強なんてちっとも苦にはなりません。涼真はいきいきとした気持ちで、ノートとシャープペンを取り出します。
ひょっとすると、先生は涼真の悩みを察していて、その上であんな事を言ったのかも知れません。
先生は自分の事を、分かってくれていたのだろうか。涼真は何だか、泣きたくなりました。
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