クラーラとフランカ ―Klára és Franka―

月森あさせ

序繍 竜と魔女の婚姻譚

 昔々、双頭の黒鷲が大陸の諸領邦を統べていた昨日の世界さいごのじだい

 真珠の街を流れるドナウ川の水底で、睡蓮の竜と糸紡ぎの魔女が出逢であった。



 *


 古びた大きな鏡が、可愛らしい花嫁と凛々しい花婿を映しだしていた。薄暗い室内に差しこむ穏やかな陽射し。ひたひたと広がる静寂に時を刻むような、はさみの音。小柄な花嫁がかしこまった面持ちで立ちつくしているその傍で、背のすらっとした花婿自らが、花嫁のドレスに縫いつけられた細い銀の糸を慎重な手つきで切っては抜いていく。花婿がドレスから抜いた糸を宙に放すたび、糸はかすかな閃光を放ちながら空気へ溶けていった。

「珍しいね。あなたが緊張してるなんて」

 手を止めずに花婿が告げると、花嫁は茜色の光が差しこむ空色の瞳をヴェールの下で瞬きさせた。決して明るくはない室内でも輝きを失わないそれは、まるで暗闇の中で行く先を照らして旅人に安堵感を与えるランタンのようだった。一方で花婿の菫色の瞳は夜露のようで、陽の光を得て夜を彩る月さながらにただただ、花嫁を見つめていた。

「緊張――そっか、わたしは緊張しているのね」

「きっとそう。ドナウ侯に同盟を持ちかけたときだって物怖じしなかったのに」

「ふふっ、ちょっとはらしくなったということかしら? ――あなたこそ、昨日まで慌てふためいてたのに、今日になったら随分と落ちついてるのね」

「うーん、今はほら、こうしてドレスを整えてると仕事の意識が強くなるから、じゃない? みんなの前に出たら震えあがっちゃうと思うよ」

「大丈夫よ、そのときはすかさず手を握ってあげるから」

 花嫁が得意げに言うと、花婿は口元を緩めて「心強い」とこそばゆげに返した。

 花嫁の年齢は十代後半といったところだろうか。黒茶色の直毛は、後頭部でシニヨンに結われていた。その頭部と小さな顔を守るように包む、繊細に編まれたレースのヴェール。アーモンドの花のように澄んだ白のワンピースドレスは、ジゴ袖がふっくらと膨らんで肘の手前できゅっと締まり、花嫁の腕の輪郭を描いてレースの絹の手袋まで細く伸びている。手袋の下の手の甲、そして少し大きく開いた胸元は白いオパールの鱗が重なりあうような装飾が施され、コルセットで絞られたボディスには大きな刺繍の睡蓮の花が咲いている。レースとサテンが重なりあいながらスカートとなり、緩いカーブを描いて床下に流れていく。オパールのブローチが下がる首元のチョーカーは首の後ろで蝶々結びにされて、その尾が腰まで下りて時折ひらひらと揺れていた。

 そのドレスは元々、花嫁の養母が養父と結婚した際に着た年代もののドレスだった。全て解き、傷みを修繕し、足りない分は新たな生地で整え、流行のスタイルに合わせて新たに仕立て直されたのだ。仕立てた人はまさに、傍でドレスを整えている花婿その人だった。

 花婿はと言えば、よわい二十は越えているだろうが半ばまでには届かない。ゆるくウェーブがかった蜂蜜色の髪を後ろに流して固めており、襟足の髪が糊の効いた白いシャツの立ち襟にかかっている。裾の長いフロックコート、アイロンでしっかりと折り目がつけられたトラウザーズ、ポインテッドトゥの革靴は黒で統一されているが、蝶ネクタイとジレは柔らかなクリーム色だ。ジレには真白の草花の刺繍が細やかにあしらわれている。花婿の衣装もまた自身で仕立てたものだが、フロックコートとトラウザーズは新調しているのに対し、ジレは花嫁の養父から譲りうけた年代物のそれを花婿の体型に合わせて仕立て直したものだった。

 室内に配置されたオーク材のクローゼットやテーブル、布張りの椅子は全て、数十年前に流行したビーダーマイヤー様式の家具である。流行などとうの昔に過ぎて古びてはいるものの造りはしっかりしており、何度も修繕され飴色に照るそれらは、持ち主によって大事に使われてきたのがよくわかる調度品だった。

 花婿は裁縫ばさみを、腰に下げているシャトレーヌに戻した。はさみの他にも複数の器具や小さなケースが下げられているそれらの全てに、睡蓮の模様が掘られている。屋敷の女主人を象徴するそれを花婿が下げているというのは状況もあいまって不釣り合いのはずなのだが、どうしたことか違和感がない。花婿は腰から取りはずす様子もないまま、おもむろに花嫁から一歩下がった。

「さあて、仕上げのおまじない――〈メシェ・ロチョラーシュ〉」

 花婿が、人差し指を口元にあててささやいた。花婿の手袋の下、手の甲に紋様がオーロラ色にきらめいたそのとき、花嫁の足下から黄金色の光の鱗粉が生まれた。息を呑む花嫁の足下からすばやく円を描いて周囲を立ちのぼり、花嫁の頭のてっぺんまで到達すると霧雨のように降りそそぐ。すみれの艶やかな香りが小柄な花嫁を守るかのように美しくきらめいて、固まっていた花嫁の表情が和らいだ。

「いい香り」

「でしょう?」

「……〈古い妖精〉から祝われるなんて、なんだか不思議な気持ちだわ」

「すみれの妖精が、花嫁を祝福しないはずがないよ。今日だけは応えてくれると思ったんだ――おまたせ。さあ、外に――」

「待って。……鏡の前で、並んでみない?」

 言いながら花嫁が慎重に差しだしたその手を、一瞬の間を置いて、花婿がうやうやしく手に取った。花婿は優雅な仕草で己の腕に促して、互いに寄り添った花嫁と花婿が大鏡の前に並ぶ。再び映しだされた二人は、まさに今から教会で婚約の儀を執り行う〈新婚の男女〉の姿そのもので、しかし――数秒も経たないうちに、二人は子どものように大声で笑いだした。笑いながら互いの手と手を取って向き合い、くるくると踊りだした。

「フランカ、ねえフランカ!」

「なあに、クラーラ!」

「わたしたち、誰がどう見ても〈新婚の夫婦〉だわ!」

「そうだよ、どこにでもいる〈花嫁〉と〈花婿〉だよ! ここまでさまになるなんて思わなかった!」

「ええ、ええ! ――ああ、ごめんなさいシェレン、起こしちゃった。でもそろそろ準備を始めてちょうだい。遅れてしまうわ」

 花嫁が視線を投げかけた先で、テーブルの上に丸まって寝ていた小さな動物が顔をあげた。目をごしごしと前足でこすりながら、すくっと起き上がる。兎のような長い耳、花のような翼、猫のような尾を二本ほど生やしたその動物――一匹の妖精は、楽しげに踊る二人へ目を留めるなり「むぅー!」と一声鳴いた。大きなベルが前を飾るコットン生地のケープがかわいらしい。テーブルから飛びおりて、鈴の音のような足音を立てながら、二人の周囲を嬉しそうに駆け回った。

「ねえフランカ、それにシェレン。わたしはちゃんと淑女に見えているかしら? 天国のお母さまも喜んでくれるかしら!」

 花嫁がドレススカートをそっとつまんで恭しく一礼する。花びらを舞わせるかのように美しい所作を前に、花婿は迷わず頷いた。妖精もまた、「むぅ-っ!」と満足そうに鳴いた。

「うん。とても綺麗だよ、クラーラ。――私はどうかな? かっこいい? ちゃんと紳士に見えてる?」

 花婿は両手を少し大げさなそぶりで広げたあと、片足を後ろに下げて、片腕を流麗な仕草で胸にあてて一礼した。指の先まで神経の行き届いた、隙のないあでやかな所作だった。

「もちろん。今のあなたは誰が見たって立派な紳士よ。とってもかっこいいわ!」

「よかった、ありがとう。……髪までいじらなくてもよかったかもね」

「でも、『人前に立つときは人間の流行に合わせなさい』って、お母さまがよく言っていたじゃない。お母さまとお父さまの教えは、守っておいたほうがいいと思うの」

「……そうだね。二人を安心させたいものね」

「そう、そうなのよ。……フランカ」

 花嫁は再び花婿に向き合うなり、花婿の手を両手でそっと握りしめた。

「ありがとう。お母様のドレスとお父様のジレを、わたしたちの婚礼のために仕立て直してくれて――わたしと一緒に生きていくことを選んでくれて、ありがとう。……これからきっと、わたしはあなたにたくさんの苦労をかけてしまうわ。でも、これでわたしたちは、わたしたちの間では思い思いのまま生きていけると思うの。だから、」

「ねえ、クラーラ」

 花婿は、空いていた片手を花嫁の両手に重ねた。

 その声音と口調は先までとまるで異なっていた。声の高さや質は変わっていないというのに、張りつめた糸が緩んだかのような柔和な響きをたたえていた。

「私はね、あなたが私の手を取ってくれたあの日からずっと、幸せなんだよ。それは、誰にも変えられない。皇帝にだって、ドナウ侯にだって、できないんだから」

「――……フランカ」

 自然と目を伏せていた花嫁が、はっとして花婿を見上げた。花婿はそれはそれは幸せそうにほほえみながら、まっすぐに花嫁を見つめていた。そう、それはまるで。

「手を離さないで。何があっても、この手を離さないで」

「――……当たり前じゃない。何度でもあなたの手を取りにいくわ、フランカ」

「約束ね。……これからもよろしくお願いします、クラーラ」

「うん。よろしくね、フランカ」

 互いに互いの手を重ねたまま、花嫁と花婿が見つめあう。静かな化粧室で向き合うその姿はまさに、永遠とわに生涯を寄り添うことを教会で誓う「夫婦」そのもの、だったのだが。

「……むぅー?」

 耳をそばだてた妖精がおもむろに振り返って大鏡を見上げたとき、大鏡に映る横向きの二人の姿がゆらりと揺らめいていた。〈花婿〉の蜂蜜色の髪は水中に深く潜る睡蓮の根のように、腰の下まで長く伸びていく。スーツはいつのまにか深い菫色のガウンへと姿を変えて――その体躯と腰に下げたシャトレーヌは変わらぬまま、〈花婿〉は魔女の様相へと変化していた。一方で〈花嫁〉はシニヨンがほどけて黒茶色の直毛が肩の上まで短くなっていき――……室内には到底収まらないほどに巨大な生物が現れて、〈花嫁〉の姿に重なった。それは、白いオーロラ色の鱗を持つ竜だった。

 鏡の中で、夜半よわの深淵がどこまでも広がっていく。竜は清廉な燦めきで深淵をほのかに照らしながら、空色の光が差しこむ茜色の鋭いまなざしを細めて、魔女に頬ずりでもするかのようにその顔を無防備に下ろしていた。鋭い爪の生えた大きな手がそっと、魔女を身体ごと優しく包みこんでいく。竜の手の中で、長く美しい髪をたわわに揺らす魔女は幸せそうに、竜の鼻の先に額をあててほほえんでいた。


「クラーラ、フランカ。終わったか?」


 回廊に繋がる扉の向こうから、気怠げな少年の声が不意に落とされる。そのときにはもう、鏡に映しだされた竜と魔女は〈花嫁と花婿〉の姿に戻っていた。はあいと応えた二人――クラーラとフランカは「聞かれちゃったかしら」「聞かれたかもね」と、いたずらげに言葉を小さく交わした。

 妖精――シェレンがぴょんぴょんと飛びはねて扉の前に立ち、振りむいて「むぅっ、むぅっ!」と二人を急かす。クラーラがフランカの腕に手を忍ばせて甲斐甲斐かいがいしく寄り添い、凛々しい顔立ちに戻った花婿が胸を張って姿勢を正したとき、重い金属音を立てて扉がゆっくりと開かれた。

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クラーラとフランカ ―Klára és Franka― 月森あさせ @tsukimoritecho

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