35_サイン

 香奈との計画が発覚し、捕まってしまうのではないだろうか。そんな不安を抱えながらの日々が過ぎていく。


 あの日以来、秀利はもちろん、香奈からのメッセージも途絶えている。



 そんな状態のまま、1ヶ月が過ぎた。



 松本ホールディングスに関しては、これといったニュースは無い。香奈は成功したのかもしれない。そうだとしても、お金のことはもういい。もう関わりたくはなかった。



 居酒屋こだまは、相変わらず賑わいの日々を見せている。


 来週から、響は火曜日も休みを取ることになった。僕と大将だけでも、大丈夫と認めてくれたのだと思う。それに加えて、週末は学生バイトが入る事になった。


——————————

佑、ちゃんと起きてるよね?

——————————


 響からだ。あの日以来、2人が休みの日曜日は一緒に出かけている。今日は動物園に行く予定だ。あの後しばらくして、響は大将にも僕たちとの事を話したようだ。大将は、そこまで驚いていなかったと聞いた。


——————————

起きてるよ! もうしばらくで家を出る!

——————————


 店では変わらず敬語を使っているが、2人だけの時には使わなくなった。響が敬語で話すのを嫌がるからだ。


 鏡の前で髪型をチェックしていると、玄関をノックする音が聞こえた。日曜日の朝8時。こんな時間に誰だろうか。


「……どちら様でしょうか?」


「伊藤佑さんですね? 松本秀利の件でお話しがあります。開けて頂けますか?」


 野太い男性の声だった。


 僕は一瞬で理解した。警察だ。



 ドアを開けると、スーツ姿の男性が立っていた。スーツの上からでも、ガッチリした体格だと分かる。


「すみませんが、ご同行頂けますか? 下で待っている者がいます」


「け、警察の方ですか……?」


「……さあ、どうでしょうか」

 

 その男性は、表情も変えずにそう言った。僕の体は、カタカタと小さく震えていた。



 響に、「今日は会えないかもしれない」とだけメッセージを入れ、その男性と一緒にマンションを出る。


 男性に連れて行かれた先には、黒塗りの高級車が停めてあった。男性は後部座席のドアを開けると、「乗ってください」と僕を促す。後部座席には、40代くらいの女性が座っていた。


「……大変な事をしてくれたわね、あなた」


 その女性は言った。


「……秀利さんの事でしょうか?」


「そうよ! 香奈と……もう! 香奈という名前を口にするのさえ、気分が悪いわ! ……あの女とやった事よ。私は松本秀美ひでみ。秀利の姉よ」


 香奈のやった事は全てバレているようだった。秀利の姉、秀美は怒りを隠そうとはしなかった。


「すみません……悪い事をしたというのは、自覚しています。本当にすみませんでした……」


「あなたも18歳なら、良い事か悪い事かくらいは判断出来るでしょ!! 本当にあの女は、こんな若い子まで巻き込んで、タチが悪い!!」


 秀美は、僕を連れてきた男性に「車を走らせて」と指示した。


「どこかに連れて行くわけじゃないから。ずっとここに停まってるのも変でしょ」


 秀美が言うと、黒塗りの高級車は滑るように走り出した。



「秀利と長男の秀正ひでまさはね、何故かあの女をチヤホヤしてたのよ。私と次男は最初から大嫌いだったけど」


 秀美はずっと、香奈は何かをしでかすと思っていたらしい。香奈と同じように探偵を雇い、香奈をマークしていたという。


「昼間もどこに行ってるのか知らないけど、よく家を空けてたしね。その時にあなたと会った事を掴んだのよ。2回会ったわよね? その内、ホテルにでも行くと思ったわ。18歳の男の子とホテルに入るところなんて掴んだら、すぐに離婚させてやるつもりだった」


 僕は、香奈と秀利と秀美の3人に、個人情報を調べられていた事になる。


「それが、次にあなたの顔を写真で見たとき、横にいたのは秀利だったのよ。驚いたなんてものじゃ無かったわ! ……その時になって、やっと長男も分かったみたい。あの女の本性が」


「……香奈さんは、警察に捕まったんですか?」


「だとしたら、あなたの所にも警察が行ってるでしょ。……あの女は、開き直ったのよ。捕まる事になったら、全部ぶちまけるって。大人しく出て行くかと思ったら、金を要求してきたのよ! 私には失うものが無いって。どちらが松本家にとって正解なのか、考えてって。ああっ、今思い出しても腹が立つ!!」


 秀美は、膝の上に置いてあったクリアファイルを平手で叩いた。


「……どんな事があったか、これで分かったでしょ。じゃ、これにサインして」


 秀美は、クリアファイルから書類と封筒を取り出して、僕に渡してきた。


「なんですか、これ……」


「封筒に500万円入ってる。簡単に言うと、口止め料。今回の事は絶対に口外しないとか書いてる。納得したらサインして」


「で、でも、迷惑ばかり掛けたのに、こんなもの貰えません」


「書類もその流れで作成済みなの。さっさとサインして。作り直すにも、またお金が掛かるんだから。この件は、早く終わらせたいの」


 秀美はため息をつくと、顔を背けた。



「じゃ、これでもう、あなたと会うこともないから。何か聞いておくことある?」


 車は僕が乗り込んだ場所まで戻ってくれていた。


「秀利さんは、大丈夫なんですか……?」


「——まさか、本当に好きだったとかじゃないでしょうね? 前の通りよ。他の社員にバレても面倒なだけだから。それと……まだ若いんだから、これからは真っ直ぐ生きていくのよ」


 僕は頭を深く下げて、後部座席のドアを閉めた。


 日曜日の朝。まだ時間は早い。


 響に連絡を入れ、動物園とは違う場所へ僕たちは出かけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る