サヨナラは雨とともに
私が大学生になる頃に祖母が亡くなり、長年の介護の疲れが出た母は、一気に歳を取ってしまったように見えた。
私は大学生になって一人暮らしを始めた。
家に負担にならないように、奨学金とアルバイトで学費と生活を賄っていたこともあって、あまり実家には帰れなかった。
母が送ってくれた米や野菜を受け取ったときに、電話をして声を聞くだけだった。
アパートから通える就職先を見つけたため、大学を卒業した後も引き続き一人暮らしを続けた。だが、学生の頃よりは時間の余裕ができたので、年に数回は帰省して顔を見せることができた。
ところが、勤続十年を超え、部下を指導する立場となった私は、多忙を理由に再び実家に帰らなくなった。まる一年は顔を見せずに、それどころか、ろくに連絡もせずに仕事に没頭していた。
そんなある日、母が倒れたと知らせがあった。
急いで病院に向かって、母と対面した。
たった一年で、別人のようになっていた。
髪は全部白くなって、皺だらけで、シミがいくつもできていた。
命は助かったが、寝たきりの生活を余儀なくされた。父は既に他界し、他にきょうだいはいない。そうなれば、必然的に自分が世話をするしかない。
施設を利用するという手もあったが、自宅で介護する選択をした。高校を卒業してからというもの、親孝行を何一つできていなかった。今、恩を返さずにいつ返すというのだ。
勤めていた会社に事情を離すと、在宅勤務を許可してくれた。介護という状況も考慮し、勤務時間は変則で良いと言ってもらえた。
クビになることも覚悟していたので、ありがたい話だった。
* * *
実際に介護をやってみると、かなり体力のいる仕事だと分かる。食事のために身体を起き上がらせたり、入浴の移動のために持ち上げたり、床ずれしないように向きを変えたり。
また、言語障害があると意思疎通も難しくなる。最初は何を言いたいのか分からなくて、イライラして、そんな自分が悔しくて泣いたこともあった。
母は、これを毎日やっていたのだ。
私は介護ヘルパーを利用させて貰いながらようやくこなせているというのに、たった一人で、毎日祖母を介護していたのだ。
ろくに手伝いもしなかった当時の自分が、どうしようもなく薄情に思えてしまった。
介護にも慣れた頃。一日中雨が降っていた夏の日のことだ。オムツの換えを終えて、台所に行って麦茶で喉を潤した。すると、この光景に既視感を覚えたのだ。
何だろう、と記憶を辿ると。
ふと、幼い自分が、母に対して汚物を触るのは嫌ではないのかと尋ねたことを思い出した。
そして、おしっこから出てきた水の神様の話も思い出した。
母が呼ぶ声が聞こえて、回想は中断された。
母が寝ている隙に、夕食の準備を進める。
大きな音が出る炒め物や、煙や強いにおいが出るものは避け、繊維の多くない野菜の煮物を副菜として作り、鯖の味噌煮の缶詰を主菜にする。
もちろん骨はしっかり取り除く。
好物の厚焼き玉子は、ヘルパーさんがいるときに作るから、今日はこれで勘弁してね。
「あち!」
うっかり鍋を触ってしまい、指を火傷した。
自分でも気づかないうちに、疲れが溜まっているようだ。
――いけない、いけない。しっかりしないと。
食事をトレイに乗せて、母のベッドまで持っていく。身体を起こして座らせた母が、思うように動かないはずの手で、私の手を掴んだ。
「お母さん、どうしたの?」
私の手を見つめたかと思うと、コップに入った冷たいお茶を、私の手にかけた。
「お母さん、何するの!」
布団も服もびしょびしょに濡れてしまった。急いでタオルで拭う。拭いながら、私は涙が出そうになった。
――どうして、こんな酷いことをするの。私は、お母さんのために、一生懸命に頑張っているのに。何が気に入らないの。こんなになるまでお母さんをほったらかしてしまった私のことが、やっぱり憎いの?
涙を零すまい、弱い姿を見せるまいと必死に堪える。母はそんな私の頭を、覚束ない手つきで撫でた。
驚いて見上げると、あの頃と変わらない目を私に向ける母がいた。濡れたタオルを握って、私の指――さっき火傷をした所に当ててくる。
「……お母さん」
今度は、堪えることができなかった。
とめどなく流れる涙が、拭いたばかりの布団にぼろぼろ落ちていった。
――そっか。そういうことだったんだね。ようやく、答えが分かったよ、お母さん……。
* * *
葬式の前夜。
私は、自宅で北枕で眠る母の前に正座している。
母と一緒にいられる、最後の夜だ。
明日は晴れ時々曇りの予報だ。
それでも、私は「雨になれ」と願った。
翌朝。
曇っではいるが、雨は降っていなかった。
「お母さん、ごめんね。神様に、祈りは届かなかったみたい」
葬儀社と段取りの最終確認を済ませ、母を乗せた霊柩車の助手席に乗る。フロントガラスに、ぽつぽつと雨が降ってきた。
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