サヨナラは雨とともに

篠塚しおん

母から娘へ

 母が死んだ。

 髪は全部白くなって、皺だらけで、シミがいくつもできていたけれど。

 おだやかな表情だった。


 葬儀の日。

 霊柩車の助手席に乗り込むと、フロントガラスにぽつぽつと雨が降ってきた。今日の天気予報では、雨は降らないはずだったのに。後ろにいる母に――貨物になってしまった母に、声をかけた。


「よかったね……お母さん」


* * *


 母の雅美まさみは、私――有紀ゆきが幼い頃から、父方の祖母の介護に追われていた。

 ほとんど寝たきりの状態の祖母の食事に、入浴に、着替えに、掃除に洗濯。それに加えて、幼い私の世話に、仕事人間の父の世話。自分の時間なんて、ほとんど無かったと思う。


 いつだったか、祖母のオムツを換え終わって、台所でひと息ついている母に訊いたことがある。


「他の人のおしっこやうんちを触るの、嫌じゃないの?」


 すると、母は笑って言った。


「むかーしは嫌だったこともあるけど、今は嫌じゃないよ。有紀が小さい頃だって、毎日オムツ換えてたのよ」


 それにね、と母は続ける。


「おしっこやうんちにだって、神様はいるんだよ」


 私はとても信じられずに、「嘘だぁ」と言った。


「信じられないかあ。それじゃ、寝る時にお話してあげるね。お母さんが小さい頃に、お母さんのお婆ちゃんから教えてもらったお話」


「うん! 約束!」


 子供ながらに母が忙しいことは理解していて、あまり我儘を言わないようにしていた。だから、私を寝かしつける時に物語を聞かせてくれる時だけが、母と私の時間だった。


* * *


 祖母の介護と家族の世話で一日が終わり、くたくただろうに、母は私に添い寝して話を聞かせてくれた。


 むかーしむかし、日本をつくったえらい二人の神様がいました。

 ひとりは、男の神様のイザナギ様。

 もうひとりは、女の神様のイザナミ様。

 ただの海だった場所を、長い時間かき混ぜて、島をたくさんつくりました。


「本当は、神様はね、『一人、二人』じゃなくて、『一柱、二柱』って数えるんだよ。でも、有紀に分かるように、二人って言うことにするね。二人の神様にありがとうっていう気持ちを忘れちゃだめよ。だって、二人の神様が日本をつくってくれなかったら、有紀はこうやってお家に暮らせなかったんだから」


 神様は国をつくったあと、たくさんの子供を生みました。

 石の神様。土の神様。

 海の神様。風の神様。

 山の神様。穀物の神様。


「有紀が食べているご飯も、神様が生まれたお陰で食べられるのよ」


 ありとあらゆる神様を生みましたが、火の神様を生んだ時に大火傷を負ってしまいました。

 動けなくなって寝ていたイザナミ様は、うんちとおしっこを漏らしてしまいました。

 すると、そのうんちとおしっこも、神様になりました。


「うんちとおしっこの神様なの?」


「ううん。うんちからできた神様は、陶器……そうね、昔、おじいちゃん達と陶芸をやったの覚えてる? 土を焼いて、お皿と壺を作ったでしょう? あのお皿や壺の神様になったの」


「そっかあ。お皿を焼く前の土、うんちみたいに柔らかかったもんなあ。じゃあ、おしっこは?」


「水の神様と、温泉の神様になったのよ」


「冷たいお水と、あったかいお湯? 神様、二人になったの?」


「そうよ。イザナミ様のおしっこから、二人の神様ができたの。おしっこは温かいから、温泉の神様になるのは分かるけど、冷たいお水の神様になるの、不思議じゃない?」


「うん、不思議。なんでー?」


 母から返事はなかった。私が目を開けて横を見ると、母はすうすうと寝息を立てていた。

 私はブランケットを取ってきて、母にかけてあげた。

 外から聞こえる雨音を聞いているうちに、私も眠ってしまった。


 一晩寝た私と母は、お互いに質問の答え合わせをするのを忘れてしまって、結局どうして冷たいお水の神様ができたのかを母から聞くことはできなかった。


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