第79話 やさしい時間

「それじゃ、葵ちゃん、一人で家にいるわけじゃないのね」

 純子さんは心底ホッとしたような表情になる。

 純子さんは精密検査をしても、結局どこにも問題は見つからなかったようで、一週間ぐらいで退院した。今は自宅で安静にしている。


「ハイ、一応は。でも、帰って来ても何もしないで、家でゴロゴロしてますけど」

「それは困るわねえ。仕事は探してるのかしら」

 純子さんはベッドから起き上がって、私と心と会話している。といっても、心はベッドから離れた位置に座って、ずっと爪をいじってる。

 心に純子さんのことを話すと、すごく動揺していた。たぶんお母さんのことを思い出したんだろうな。

 だから、病院には一度も足を運ばなかったみたい。仕事が忙しいってのもあるんだろうけど。

 今日も、私が何度も「もう会っても大丈夫だよ」と説得して、ようやくお見舞いに来たんだ。


 純子さんはそんな心のことが分かってるみたいで、「心ちゃんも、お店が忙しいのに来てくれてありがとうね」と気遣っている。

 心はしばらく黙っていたけれど、「……僕、お見舞い、行けなくて」とポツリと言った。

「いいのよ。すぐに退院したんだし。病院ではずっと寝てたから、来てもらっても退屈だったろうし」

「……」

「心ちゃん。こっちに来て」

 純子さんは優しく呼びかける。心はおずおずと、枕元に立った。


「大丈夫。私は心ちゃんを残していなくなったりしないから」

 心の手をそっと握る。

 途端に、感情のスイッチが入ったように、心の目から大粒の涙が零れ落ちた。純子さんは心を引き寄せて、ふわりと抱きしめた。

「大丈夫、大丈夫だから。ね?」

 心の背中を優しくなでる。心は純子さんにしがみついて泣いてる。よっぽど不安だったんだろう。

 でも、これじゃ、どっちがお見舞いされてるのか、分かんないよね。

 見ているうちに、なんだか私まで泣けてきた。


「あらら、葵ちゃんまで。ハイハイ、こっちに来なさい」

 私もベッドに腰掛けると、純子さんが包み込んでくれた。

「二人とも、私の大切な娘ですもの。ねえ。心配してくれてありがとね」

 甘い香り。ああ。純子さんが、ホントにお母さんだったらいいのに。

「大丈夫。私はずっと二人のそばにいるからね。大丈夫」

 鼻声になった。見ると、純子さんの頬にも涙が伝っている。

 そこに信彦さんがお茶とお菓子を運んできて、「何、一体どうしたの?」と目を丸くしている。


「二人の娘が、私が入院したら寂しくなっちゃったみたいなの」

「ああ、そういうことね。じゃ、僕はお邪魔かな」

 テーブルにお盆を置くと、信彦さんは出て行った。

 ひとしきり泣いてスッキリして、3人で紅茶を飲んだ。

「ああ、ホッとする。やっぱり家が一番。二人にも普通に会えるし」

 純子さんはおいしそうに紅茶を飲む。


「葵、大丈夫なの? お母さんと一緒で」

 そう言う心は、目も鼻も真っ赤になっている。

「うーん、今のところは何も起きてなくて。お母さん、私に何も言ってこないし。家でダラダラしてるだけで、この先、どうするつもりなのか、分からないし」

「一度、ここに連れて来たら? 私と信さんから話をするから。信さんに、何か仕事を見つけてもらうこともできるだろうし」

「えっ、いいんですか? そうしてもらえたら、助かりますっ」

「葵ちゃんじゃどうしようもないでしょ、これは。信さんは、若者を更生するボランティアをしてるから、葵ちゃんのお母さんの更生も手伝えるんじゃないかな。お母さんは若者ではないけど」


「それじゃ、僕はしばらくそっちに帰らないほうがいいのかな」

「ううん、私、心に帰って来てほしいよ。お母さんに心のことは話してあるし」

「じゃ、お母さんが落ち着いたころに帰ることにする」

「うん、そうして、そうして」


 それから、純子さんが入院している間の話とか、心のお店の話をしていると。

「ごめんなさいね、ちょっと横になる」

 純子さんが横になったのを見て、私と心は顔を見合わせた。そろそろ、お暇したほうがよさそう。

「それじゃ、そろそろ帰りますね」

「葵ちゃん」

 純子さんは弱々しく呼びかける。

「こども食堂のワークショップ、考えといてね」

「あ、それ、私、子供相手には教えたことないから、できるかどうか……」

「何事も経験、経験。大勢の人に教えて来たんだから、葵ちゃんなら大丈夫よ。老人ホームでも教えてたんだから」

「ハイ……」


「それでね、葵ちゃん、人に教えるのも立派な生き方よ」

 純子さんが何を言おうとしてるのか分からなくて、私は軽く首を傾げた。

「新しいミニチュアを作るのだけがミニチュア作家の仕事ってわけじゃないと思うのね。葵ちゃんには、葵ちゃんに向いているミニチュア作家の仕事の仕方がきっとある。葵ちゃんは教えるのが上手だし、そっちに専念するのもアリだって思う」

 ああ。純子さんが何を伝えたいのか、分かった。


「もちろん、私は葵ちゃんの作品が大好きだけど。作れないからって、そんなに自分を責めないで欲しい。きっと、いつかまた作れるようになるから、焦らないでほしいの。葵ちゃんはまだ若いんだし。いくらでも、時間はあるんだから。ね?」

 純子さんは優しく微笑んだ。

 私はうなずくので精いっぱいだった。

 純子さんは、私の苦しみをすべて分かってくれている。それだけで、私は救われた気になるよ。

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