第78話 「ただいま」も言わずに。

 病院から帰って来た時は、既に9時を回っていた。

 真っ暗な家の中。出かける時は一か所だけでも電気をつけて行かないと危ないんだけど、そんなこと考えてる余裕はなかった。

 パチンとスイッチを入れても、明かりに映し出されるのはガランとした、からっぽな家。

 リビングまで重い足を引きずるように運び、ソファに倒れ込む。

 どうしよう。純子さんまでいなくなっちゃうことになったら。

 ううん、そんなことない。純子さんがいなくなるなんて、不吉なことを考えたらダメだ。

 だけど、純子さんまでいなくなったら、私、どうしたらいいのか。


 そうだ、心に伝えなきゃ。

 心に電話をしようとスマホを取り出して、指が震えていることに気づいた。うまくスクロールできない。

 歯がカチカチと鳴る。

 あ、ダメだ。我慢してたけど。ダメだ、もう。

 感情が決壊したみたいに、涙がどっとあふれる。泣いてばっかの自分がイヤになる、ホントに。

 神様、私、何かした? なんでこんなにひどいことばっか起きるの? 私、何か悪いことした?


 神様に恨み言をぶつけていた時。

 突然、チャイムが鳴った。

 え? こんな時間に?

 壁の時計を見ると、10時に近い。

 こんな時間に誰が来るんだろ? なんか、ヤバそう。いいや、居留守使おう。

 無視してクッションに顔をうずめていると、再びチャイムが鳴る。それでも放っておくと、チャイムが連打された。

 え? 何なの一体。近所の人が緊急の用事とか?

 ティッシュで涙を拭っていると、今度はドアをドンドンと叩かれて、飛び上がった。


 えっ、門の中に入って来たってこと? どどどどうしよう。泥棒? 不審者? 警察を呼ぶ?

 様子を見るためにおそるおそる玄関に出て、ドアスコープから外を覗いてみる。

 門灯に照らし出されたのは、赤い髪の人。女の人っぽい。

 うわ、どうしよう。おかしな人かな? やっぱけいさ

「葵~、いないの? あーおーい!」

 

 えっ。この声。

 私はチェーンをかけたまま、そっとドアを開けた。そこに立っていたのは。

「なんだ、いるじゃない。寝てたの?」

 怒ったような表情で私を見つめる女性……お母さんだった。

 お母さんは私の顔を見て眉をひそめると、「何、泣いてたの?」といきなり突っ込んできた。

「えっ、いや。そんなこと」

「早くチェーン外してよ」

「う、うん」

 チェーンを外すと、「はあ、疲れたあ~」とお母さんはキャリーケースを玄関に引っ張り込んだ。前、仕事で出張に行く時に使っていたキャリーケースだ。ずいぶんボロボロになっている。

 ってか。お母さん、何というか、ずいぶん。


 私が言葉もなくお母さんを見ていると、「何?」と軽く眉をしかめる。

「いや、その……だいぶ」

 老けたなあ、なんて言えないよね、本人には。

 私の視線の意味に気づいたのか、お母さんは「ふん」と軽く鼻を鳴らして、スタスタとリビングに向かった。

「はー、久しぶりだわー」

 肩から下げていたボストンバッグを床にドサリと置くと、さっきまで私が座っていたソファに腰を下ろす。

 えーと。何年ぶりだっけ。

 ってか、いきなり帰って来て、何なの???

 今月は「懐かしい人に会える月間」なわけ?


「なんで折り畳みテーブルがこんなにたくさんあるの?」

「あ、これはここで教室を開いてるから」

「ここでミニチュアを教えてるってこと?」

「うん」

「へええ。いつの間にか、教室を開けるぐらいに有名になったんだ」

「いや、そんな有名じゃないけど」

「小説のカバーにミニチュアが使われてたでしょ? すごいじゃない」


 そんなこと知ってるんだ。

 私はまだ、目の前で起きていることに頭がついていかない。

 髪を赤く染めてるけど、ずいぶん前に染めたのか、根元が黒くなってきている。そして、目尻の皺。頬にはメイクで隠し切れない大きなシミ。痩せたのか、首や手にも皺が寄っている。お母さん、いくつだっけ? まだ50代だよね。なんか、60代ぐらいに見える。あの、キレイだったお母さんが……。

 お母さんと目が合って、とっさに出てきた言葉が。


「……なんで、髪赤いの?」

「あんたねえ、久しぶりに母親に会うのに、気になるの、そこ?」

「いや、だって、いきなりだし」

「染めたいから染めただけ。私の部屋はそのまま?」

「うん」

「そう」

 お母さんは立ち上がった。

「じゃ、着替えてこよっと。あ、お風呂入ってる? 疲れちゃったから、お風呂入れてくれると助かるんだけど」

「え? あ、うん」

「よろしくね~」

 お母さんはボストンバッグを持って、足取り軽やかに二階に上がっていった。

 何? この展開。いったい、何が起きたの?? 

 私は呆然と立ち尽くしていた。



 それから、お母さんはこの家に住むことになった。4年半も失踪していたことなんて、なかったかのように。

「ただいま」も言わず、「ここでまた暮らしたい」とも言わずに、普通にお母さんの生活が始まった。

 まあ、元々はお母さんの実家だから、いいんだろうけど。。。

 4年半のことを聞いても話をはぐらかすけど、たまに気まぐれに今までの話をしてくれる。

 お母さんはあちこちを転々としていたみたい。

「鎌倉のお寺にも行ったんだよ?」と言うと、「あー、あそこね。居心地は悪くなかったんだけど、前職の関係者に見つかってやむなく逃げるしかなかったのよね」と悪びれずに言う。

「わざわざ行ってくれたんだ」と喜ぶそぶりもないし。

 相変わらず、自分のことしか考えてないんだなあ。



「最後は沖縄のスナックで働いてて、イヤになって帰って来たみたい」

 お父さんは複雑そうな表情で聞いている。

 さすがにお父さんに何も話さないわけにはいかないから、久しぶりに会うことにしたんだ。

「いやあ、急に帰って来たって聞いてビックリしたけど。何も言わずに家を飛び出したことを全然悪いと思ってないんだ……娘を一人きりにしたくせに」

 それはお父さんも同じだよね?

 という言葉をかろうじて飲み込む。


「それで、お母さんに会う?」

「いやあ、いいよ。今更会ったところで、話すことなんてないし」

「でも、4年半会ってなかったのに」

「年数なんて関係ないよ。この先、一生会わなくてもいいぐらいだし。それにしても、なんでそこまで落ちぶれちゃったんだかねえ。あんなに仕事人間で、バリバリ働いてたのに」

「やっぱ、会社でトラブったのが大きかったんじゃない?」

「あー、そうだった。パワハラで部下から嫌われてたんだっけ。あいつはやりすぎるんだよなあ」

 いやいや、お父さんの会社でもトラブってたでしょ?

 お父さんは、相変わらずお母さんのことは関心なさそうだ。


「それで、お父さんはどうなの? 結弦君は?」

「ああ、ゆずは元気だよ。幼稚園に通ってるんだけどさ」

「えっ、もう幼稚園?」

「子供の成長はあっという間だぞ~」

 スマホで結弦君の最近の画像を見せてくれる。

「わー、目元がますますお父さんにソックリ」

「そうだろ? 一緒に歩いてると、『パパに似てるわねー』なんて言われるんだ」

 目尻がどこまでも下がる。


 奥さんは、最近家に戻って来たみたい。でも、あんまりうまくいってないのは、何となく伝わって来る。

「今、うちの会社を買いたいって大企業から言われててさ」

「えっ、買うってどういうこと?」

「買収されるってこと。そうしたら、オレらの会社じゃなくなるんだよね。大企業の子会社になっちゃったら、せっかく大企業を辞めて独立した意味がなくなるんじゃないかって思ってさ。でも、みんな浮き足立っちゃって。大金が入るからね。それを山分けしたらいくらになるかって計算してるヤツもいるし。子会社になったら自由にできないよって言ってるんだけどね」

 お父さんはため息をつく。


「会社を大企業が買った後ってどうなるの? もうお父さんは会社を辞めなきゃいけないの?」

「一応、オレも、一緒に会社を立ち上げた仲間も残れるって話なんだけど、たぶん大企業から誰か出向してきて、そいつが実権握ることになると思うんだよね。だから、お飾りになるかもしれない。それだと、大金もらったところでねえ」

「だって、お父さんたちが考えた家電がヒットしたのに」

「そうそう、そうなんだよ。オレとしてはこのまま縛られずに自由にやっていきたいのに、そう考えてるのが少数ってのがねえ。ベンチャー精神って長続きしないものなのか」


「奥さんは知ってるの?」

「あいつは買収に賛成してる。大金もらって、セミリタイアしてもいいんじゃないかって。それでこっちに戻って来たんだよ」

「あ、なるほど」

「そのお金だけで老後まで過ごせるかどうか分からないって言ってるのに、『投資をすればいいんじゃない?』とか、言い出してさ。オレが30代の若者なら、いったんセミリタイアしても、お金がなくなったら、また働けるかもしれないけど。オレの年齢だと、再就職先なんて簡単に見つからないし、仕事を手放すのってリスクしかないってのを、分かってくれないんだよねえ」


「奥さんにそれを話せば?」

「何度も話してるのに、『いい投資話がある』って、何かに洗脳されてるみたいで、ヤバいんだよ」

「え~、どうするの?」

「どうなるかは分からん。でも、もしかしたら、オレは新しい会社をつくるかもしれない。何人か、オレと同じ考えのヤツもいるし。そこで好きなことを続けたほうがいいかもしれないって思ってる」

「そっか」

「まあ、そんな決断をしたら、あいつはまた実家に帰っちゃうんだろうけど」

 お父さんは空虚な目でストローが入ってた紙をいじってる。


「あいつに仕事させろよ? 葵一人で二人分養うなんて、ムリだし」

「うーん、そうしてもらいたいんだけど、私から言っても聞くかどうか」

「オレからも一応、言っとくから。まあ、オレの話も聞かないだろうけど」

 ハハ、とお父さんは力なく笑う。


 何が正解だったんだろう。

 お父さんとお母さんのことを見てると思う。

 あのころ、二人が仲を修復したほうが、ずっとマシな状況だったんじゃないかって気もする。私も、一人で暮らすことにならなかっただろうし。

 でも、そしたら、心には出会えなかったか……。

 正解なんて、永遠に見つからない気がする。この先もずっと、間違ったりしながら、手探りで進んでいくしかないのかな。

 家族って、簡単なようで難しい。

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