第80話 旅立ちの朝

 純子さんのお見舞いに行った翌日。

 朝、庭で植木の水やりをしながら、純子さんの「新しいミニチュアを作るのだけがミニチュア作家の仕事ってわけじゃない」という言葉を思い返していた。

 今の私には、何ができるんだろう。

 分からないけど、とりあえず、教室を本格的に再開しよう。人数が少ないほうが、今の私にはちょうどいい気がするし。老人ホームのワークショップも、ホームに連絡をしてみよう。

 私にはやっぱ、ミニチュアしかない。他の仕事なんてできないよ。

 だから、もう、逃げるのはやめよう。

 もう、散々傷ついて、苦しんできたんだ。

 もう、充分だ。自分を許してあげよう。圭さんを信じて騙された自分を、許してあげよう。

 私はこれからも、ミニチュアと一緒に生きていきたい。


 私は今、とても澄んだ気持ちで、そう思っている。

 色あせて見えていた庭も、今はキラキラと輝いて見える。葉っぱにたまった水滴が、朝陽を反射して。


 ああ。世界は美しい。

 そんな気持ちになれたの、何年ぶりだろう。

 純子さんに言おう。こども食堂のワークショップを引き受けます、って。


 その時、縁側に置いていたスマホが鳴っていることに気づいた。

 なんだろ。心かな?

 取り上げて表示を見ると、信彦さんからだった。


 えっ。

 背中に冷たいものが走る。

 こんな朝早くに、信彦さんから電話がかかってきたことなんて、今までない。

 まさか。

 イヤな、

 イヤな予感。

 私は緊張しながら電話に出る。


「……葵ちゃん?」

 信彦さんの声がかすれている。

 あ、待って。待って。

 やめて。やめて。

 お願いだから、その先は


「夕べ、純子の容態が急変して……ダメ、だったんだ。今朝、純子は……」

 

 信彦さんはそこで声を詰まらせて。押し殺した泣き声が、電話越しに伝わって来る。

 体がジンとしびれたみたいで。動けない。声を出せない。

 だけど、私は心のどこかで、晴れていてよかった、って思った。

 純子さんの旅立ちの朝が、こんなに気持ちよく晴れた日で。雨でなくて、よかった。


 でもね、純子さん。

 私はずっと二人のそばにいるって、大丈夫だって、昨日、言ったばっかじゃない。ねえ。二人のそばにいるって。

 神様、ひどくないですか?

 純子さんをこんなに早く連れて行っちゃうなんて、ひどすぎですよ。

 こんなに美しい朝に、お別れしなきゃいけないなんて。



 お通夜とお葬式は、純子さんの家の近くの葬儀場で行われた。

 激しい雨音が斎場の屋根を叩く。まるで、純子さんがこの世からいなくなったことを、世界中が嘆いているようで。

 私は会場の隅で、魂が抜けたように座っていた。

 祭壇には、笑顔の純子さんの遺影。ミニチュアショーに出店してる時の写真っぽい。あまりにも急な話で間に合わなくて、最近撮った写真から慌てて選んだんだって、信彦さんは言ってた。

 最前列で、信彦さんの背中は小刻みに震えている。隣の娘さんたちも、ずっと泣きっぱなし。


 棺の中の純子さんは眠ってるみたいで。

「純子さん」って何度も声をかけてみたけど、何も反応がなくて。

 純子さん、早く起きて。今なら、みんなビックリして、でもきっと大喜びするから。


 そんなことをぼんやりと思ってたら、

「葵ちゃん、大丈夫?」

 とミニチュア作家仲間が次から次へと弔問に訪れて、私に声をかけてくれる。

 私はかすかにうなずくだけだ。


「まさか、純子さんがこんなに急に亡くなるなんて。まだ信じられない」

「来月のミニチュアショー、純子さんも出店することになってたのに」

「私、初めてミニチュアを作ったのは、純子さんの講座だったの」

 みんな、涙ながらに私に思い出話を語ってくれる。そして私の手を握ったり、抱きしめて、「つらかったら連絡して」と励まして去っていく。

 私は何も言えなくて。泣くこともできないんだ。

 だって、これ、きっと現実じゃないし。

 うん。夢だよね。悪い夢。早く目覚めないと。


 お通夜もお開きになるころ、「葵」と声をかけられた。

 見上げると、心だった。喪服姿の心。たぶん、慌てて買ったんだろうな。サイズが合ってないみたい。

 心は見るからに憔悴しきってる。目は泣きすぎて腫れているし、クマがくっきりと出てるし。

 立ち上がると、心は倒れ込むように身を投げ出して来た。とっさに受け止める。

「ぼ、僕を残していなくならないって言ってたのに」

 心の声も、体も震えてる。

「ウソつき、ウソつきっ……!」

 心は激しく泣き出す。


 純子さん。

 心と三人で、純子さんのアトリエでミニチュアを作ったこと、あるよね。二人で純子さんから料理を教わったこともある。三人でいろんなことをした。いっぱいした。

 こんなに、こんなにいっぱい、純子さんに愛をもらったのに。何も恩返しできてないよ。


 お母さんがいなくなっちゃった時も、圭さんに裏切られた時も、純子さんがそばにいてくれたから、私、何とか生きてきたんだよ。全部全部、純子さんのお陰。純子さんがいなかったら、私はきっと、とっくに命を絶ってただろう。

 純子さん、お願い、私たちを置いて行かないで。

 私たちは、純子さんがいなかったら、何もできないよ。

 心の肩にポタポタと雫が落ちる。それは、私の涙だって、しばらく気づかなくて。


 お願い。神様。私が代わりになるから。純子さんを返して。お願い。

 私たちの泣き声が斎場に響き渡る。

 でもね。

 どんなに祈っても、純子さんはもう帰ってこないんだ。

 


 お葬式の数日後、信彦さんに呼ばれて、心と一緒に和田家を訪れた。

「純子は、最期まで二人のことを気にかけていて……あの日、ホントに純子は二人に会えてよかったって、何度も言ってたんだ。それはきっと、お見舞いに来た日のことだけじゃなく、今まで二人と過ごしてきた日のことを思い出して言ってたんじゃないかなって思う。僕だけだと力不足だと思うけど、僕のことを親だと思って、これからもいつでも頼ってほしい。僕も、できるだけのことをしたいから。純子は、ホントに二人のことを娘のように思ってて」


 そこで信彦さんは眼鏡を外して、ハンカチで涙を拭う。

 心は私の肘をつかんでずっと震えている。

 リビングの隅に仏壇。そこには、笑顔の純子さんの写真が飾ってある。


「申し訳ない。ずっとこんな調子で、涙が止まらなくて。娘たちにも、お父さんがしっかりしなきゃって言われてるんだけど」

 私はうつむくだけで。

「それで、二人に、純子のミニチュアを形見としてもらってほしいんだ。といっても、娘たちももらっていくし、ミニチュア仲間の人たちから回顧展を開きたいって言われてて、全部はあげられないんだけど。その展覧会の出品も、葵ちゃんに任せたいんだ。純子は葵ちゃんのことを信頼してたから、それが一番いいと思う」


 私は唇をギュッと結んで、何度もうなずいた。

 私にできることなら、なんでもします。ホントに。

「わ、私、純子さんにお世話になりっぱなしだったのに、何もできなくて」

 何とか声を絞り出すと、信彦さんは首を横に振った。


「そんな、お世話をしてたなんて、僕も純子も思ってないよ? むしろ、二人がこの家にしょっちゅう来てくれることで、僕らは本当に嬉しくて、楽しくて。うちは娘たちは三人とも遠方に嫁いじゃって、なかなか帰って来れないし。だから、二人がいてくれると、ホントに家の中が明るくなって。僕らのほうが救われてたんだよ」

 信彦さんの優しい声音に、堪えきれずに涙が膝の上に落ちる。心は声を上げて泣き出した。


「君たちに出会えてよかった。二人に出会わせてくれた純子に感謝してるんだ」

 純子さん、泣いてばっかでゴメンね。

 純子さんだったら、きっと明るく送り出したほうがいいんだろうけど。

 私、弱くて。涙が尽きるまで、泣かせてね。

 いつかきっと、笑顔でさよならを言える日が来るから。

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