第三十八話 過去から来た敵

 ハナの両親は、彼女が幼い頃に別々の道を進む判断を下した。



 ハナは、いつもひとり、だった。



 かつて、パパ、と呼んでいた男は、絵に描いたような人生の落伍者らくごしゃだった。正職にかず、日やといじみた仕事をぽつぽつとこなしたかと思えば、すぐにめてしまう。


 その理由は、周りの連中の頭の悪さ、程度の低さに毒されるのが嫌だったからである。


「俺は、あんなクソみたいな仕事するために生きてるんじゃねえ。もっと――もっとこう――」


 夕飯時に安酒を浴びるように飲んでは、必ずそういう意味のセリフを吐いた。その「クソみたいな仕事」すら、満足に続けられない男が、である。


 茫漠ぼうばくとした壮大な夢を思い描いてはいるが、さりとてそれを追うことも努力することもせず、他の夢追い人たちがあらがいもがくさまを無様ぶざまだとさげすんだ。自尊心プライドが高く、自己評価が高く、周りのすべてを見下して一丁前に正義正論を振りかざし、他人の成功をうらみ、他人の失敗をあざける。



 なのに、ただ頭を下げることすらできない男だった。


 教えをうたり、許しを得たり、間違いを恥じ、悔い改めることができなかった。



 それは、自分が相手より優れた存在であるという誤った価値観を曲げなかったからである。そうして男の怒りの矛先ほこさきは、戦うべき強者へでなく、守るべき弱者へと向けられた。


「なんて言ってるんだか分かんねえんだよ!! 言いたいことがありゃあ、はっきりと言え!」

「ご、ごめん、な、なさい、な、なんだよ……」

「はぁ!? 聞こえねえって言ってんだろ!! この――!!!!」



 ――ばちん!



 ハナの吃音きつおんは、この男から浴びせられた幾多いくた数多あまた罵声ばせい雑言ぞうごんと、暴力から生まれている。


「ちょっと!!」


 かつて、ママ、と呼んでいた女は、


「また近所から文句言われるじゃない! 大きな声出さないで! 通報されたらどうすんの?」


 世間体を第一優先とし、その次にハナの身を案じるような、そんな母親だった。


 しかし、女にとってのハナは、五体満足無事でいてくれれば十分で、目立つところにあざや傷がなければ、思うように話せようがいまいが、あまり問題ではないと考える程度の存在だった。周りから自分がどう思われるかが他のなによりも優先し、それを保ち続けるための付帯物ふたいぶつとして、ハナが必要だっただけの話なのである。


 ただ、男とは違い、女は愛してくれた。


「あたしには、あんただけだから。ねえ、ママのこと好き? 好きだよね? ほら、言って?」

「う、うん! マ、ママのこと、だ、大好き!」


 しかし、幼いながらもハナはなんとなく気づいていた。



 女は、自分の都合や勝手で、自分に愛を向けているだけなのだと。

 女は、ハナが本当に愛を欲している時には見向きもしないのだと。



 ある土砂降どしゃぶりの日、男がぱったりと家に帰らなくなり、それから女もしばしば家をけるようになった。両親が離婚したのだ、と知ったのは、二週間も過ぎてからのことだった。


(あ、あの――)


 ハナは、真っ暗なひとりきりの部屋で膝を抱え、いつも願っていた。


(ど、どうか、か、神様、あ、あたしを、こ、ここから、つ、連れ出して、ほ、欲しいんだよ)


 もう、三日も、水以外なにも口にしていない。


(あ、あたしが、わ、悪い子だったから……。だ、だから、パ、パパも、マ、ママも――!!)



 その小さく丸まった背中を、少し離れたところから見つめているのは――。



「こ、こんなの……ぜ、全部、つ、作り物の、う、嘘っぱちの、き、記憶だったんだよ……?」


 ハナは、幼い頃の哀れな自分の姿を見つめ、感情の欠けた平坦な声でつぶやく。


「こ、こんな、か、可哀想な、お、女の子なんて、ど、どこにも、い、いなかったんだよ……」



 なのに――ハナは思う。



 偽造され、嘘で塗り固められた記憶なのに、ハナはいまだその支配下から逃れられずにいる。



 そして、


「ど、どうして、あ、あたしだけ、こ、こんな、か、哀しい、お、思い出、な、なのかな……」


 そのまぎれもなく一点のくもりもない、掛け値なしの『』がハナの心をずっと苦しめていた。


「ど、どうせ、ぜ、ぜんぶ、う、嘘だったのなら、か、哀しい、き、記憶は、い、嫌だよ……」


 どれだけ成長したとしても、『現実』の真実を知ったとしても。

 誰かが意図的にハナに向けた悪意は消えることはないし、消せはしない。消せるはずがない。


「こ、こんなものを、み、見せるだなんて、ひ、ひどいんだよ……。ひ、ひどすぎるんだよ……!」


 目の前の光景に胸を締め付けられる思いで、ハナは思わずその場にしゃがみ込んでしまう。



『またべそべそ泣きやがって!! この――っ!!』

『お化粧落ちるから、お顔、いてから来て頂戴ちょうだい!』



 幻影だと、作り物だと分かっているのに、身体がすくむ。



『さすがは俺たちの子どもだ! よくやったぞ!!』

『ママはね、本当にあなたのことが大好きなの――』



 でたらめだと、紛い物だと分かっているのに、それでも心は求めてしまう。



「も、もう、や、やめてよ! こ、こんなの、ぜ、全部、な、なかったことなんだよ……!!」


 息が詰まる。動悸が早まり、頭の奥がずきずきと痛み、意識がぐるぐると回り出す。もうしゃがんでいるだけのことができなくなった。ごろり、とその場に転げ、胎児のように丸くなる。


「や、やめて……ひゅー……お、おね……がい……だ、だから……ひゅー……」



 息が――。



 ハナはぼろぼろと涙を流して、かすかな希望を求めて天に手を伸ばす。

 そこはなにもない、光すら届かない、くらく、深い闇の底で――。




 ◇◇◇




「ハナ! しっかりしろ! 目を覚ませ!!」


 なまりのように重い身体を引きりながら、搭乗待合室へガビが足を踏み入れた時、すでにハナの身体はぐったりチカラを失っていた。金属探知ゲートのすぐ脇で見つけたハナの周囲に、数枚の紙片が落ちている。トランプのカードのようにも見えるが――表に返しても、なにも書かれてはいない。ガビは一旦手に取ったそれを放り投げ、ハナの丸くなった身体を抱きかかえた。


「おい! 大丈夫かって! 頼む! 返事をしてくれよ、ハナ!!」


 叫べど揺すれど、なんの反応も示さない。


 光を失った昏いうろのような瞳がガビを見たように思えたが、なにも映っていないのだろう。背中を丸めて膝を抱えるようにして、かたくなにガビを――いや、世界をこばんでいるようだった。


心的外傷後ストレス障害PTSDか!? ……いや、前になった時は、こんなんじゃなかった――)


 ガビはどうしても気にかかり、さっき放り捨てたはずのなにも書かれていない紙片をもう一度拾い上げる。材質はプラスチックでも紙でもない。裏返す。よくあるトランプの裏に描かれているがらだと思ったが、ガビの直感はそれに違和感を覚えてすぐ手を離せとしきりに警告する。


(くそっ、きっとこいつだ……。こいつのせいで、ハナはこんな風になっちまったんだ……!)



 ――じゃきっ!!



 咄嗟とっさのことでまっすぐ駆けつけてしまったが、ガビはいまさらながらに周囲を警戒した。フィールドパンツのベルトからハルトにたくされた旧式自動拳銃を引き抜いて、油断なく構える。


(くそっ……注意深く見回せば、あちこちにさっきのヤツと同じ紙切れが落ちてやがる……!)


 床や壁、ラウンジ・チェアーや観葉植物の鉢にまで、ところどころ先程と同じ赤い紙片が貼られているのを見つけた。しかし、やはり誰の姿も見えない。だが、大空港ならまだしも、タネガシマ空港のような小さな空港の待合室に身を隠す場所など数えるほどしかない。


 その中に、


(こいつは――!!)


 大きな弧を描いて張り出した窓辺に近い場所に、見覚えのある5メートルほどの一本の太い金属柱が立っていた。鈍色に輝くそれの最上部にはドーナツほどの環状の物体が三つ、それを貫いて鋭利な切っ先がまっすぐ天井を指していた。間違いない、『ポータル』だ。


 が、


(どうして、こんなごちゃついた場所にある……? これじゃあ跳躍ジャンプしても事故になっちまう)


 おそるおそる近づいてみると、その理由が分かった。

 人工大理石の床の上に、引きずったような真新しい傷があったのだ。


(別の場所にあったのを運んできたな? なんのために? まさか、持ち帰るつもりだった?)


 その時、



 ――ちゃり。



 とかすかな音が聴こえ、ガビは素早く旧式自動拳銃を構えたまま、振り返る。


 その先にあったのは、『搭乗口』と書かれたブース。

 この搭乗待合室の中で、唯一身を隠せる場所は、そこしかない――。




 ◇◇◇




「あのドラゴンの方へ、ハルト分隊長の方へ敵兵を近づけるな! 魔導マジック詠唱者・キャスターに狙いを集中!」


 指揮官であるタキ・入瀬いるせが率先して最前線に立っているということもあり、一度は折れかけた試練生たちの士気も次第に上がっていきつつあった。また、最大の脅威と考えられていたドラゴンがなかば無力化されているということもあって、これならなんとかできるかもしれない、という希望が芽生えつつあった。


「――――――ッ!!」


 しかし、それでももうひとつの脅威は、依然として健在だった。



 ――轟ッ!!



「くそっ!! 高機動多用途装輪車両HMMWVに火が!!」

「タンクに火が回る前に離れろ!! ヤツ相手に姿をさらすな! 狙われて燃やされるぞ!!」


 肝のわったひとりの試練生が、無謀にも燃え盛るハンヴィーに乗り込み、エンジンを始動させて、敵陣の中へと走らせる。勢いが乗ったところで運転席のドアを蹴り開け、転げ落ちた。


「はン! それでも喰らいやがれ!! ……ぐっ!!!!」

「テオ! 無茶をするなと言ったろう!!」


 タキは自陣に戻ろうと振り返った途端、足を矢で射抜かれた試練生の姿を見て号令をかけた。


「おい! あの馬鹿者を援護してやれ!! 私が――テオを拾い上げに行く!!」

「いえ! 自分が行きます!」


 が、タキを遮ったのは、すぐ傍にいた別の試練生だ。まだ若いというのに、言い聞かせるようにタキの目をじっと見つめ、さとすようにこう告げる。


指揮官ママは、ここに――みんなのところにいて下さい! 指揮官ママがいれば、みんな無敵です!」

「く……っ! 頼む!!」タキは即座にタイプ1を構え直す。「一匹たりともここを通すな! 魔導詠唱者のオークは連発ができない! 次を放たれる前に仕留めろ! 構えさせるな!!」


 とはいえ、ただでさえ身を隠す場所がないこの滑走路という戦場で、唯一遮蔽物としても有効活用できた貴重な移動手段、ハンヴィーまですべて燃やされてしまえば、あとはじりじりと削られ、数を減らされるのは必至だ。


(なにか……なにか、もう一手あれば……!!!!)



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