第5話 決断

 黄昏の中、訓練場に立っていたあの若者たち。総理の質問に答えて、頼もしい笑顔を向けてくれた彼ら。彼らの存在が、総理の心の中で鮮やかに蘇った。


 自衛隊の制服に身を包んだ若者が、機関銃を肩に担ぎ、戦車の砲塔を操縦していた。総理が、彼らと共に戦車の操縦席に乗り、大砲の発射ボタンを押した、あの時の興奮。それは、強大な力を手にした感覚で、ある種の酔いとも言えるものだった。


 だが、その力がもたらす結果を思い浮かべたとき、心がざわついた。爆発音と共に、その弾が目の前の標的に命中する光景。そして、それが人間に当たったとしたら……。


 総理の脳裏には、笑顔で手を振ってくれた若者が、無残にも肉片となって飛び散る姿が浮かんできた。彼らの命が、一瞬で絶たれることの恐ろしさ、その現実を想像すると胸が締め付けられる。


「私が、彼らの命を預かっている……」と、総理は心の中で繰り返した。その重責は計り知れず、彼の心を圧迫する。



 官邸の作戦室には、一瞬の静寂が訪れた。


「撤退する。我々は一滴の血も流すことなく、この状況を解決すべきだ」と総理が力強く宣言する。


 一部の閣僚や自衛隊のトップは総理の決断に驚き、反発する者もいた。「これでは、日本の国威を傷つけるだけではないですか!」と声を荒らげる者や、「隣国に弱腰を見せることは、避けなければ……」と緊張する顔の者もいた。


 しかし、総理は彼らの反発や疑問を受け流すように、「私の決断だ。我が国として、戦うことで解決するよりも、外交的手段で問題を解決することが最も賢明であると考える。これ以上、我が国の若者たちを危険に晒すことは許されない。私が全ての責任を負います」と、断固とした態度で答えた。


 総理の言葉には、彼が先ほどの妄想で見た自衛隊の若者たちの姿が色濃く影を落としていた。彼の決断の背後には、一人の指導者としての信念と、人の命への尊敬があった。



 夜の海は、闇に包まれ、星の光と艦船の明かりだけが点々と浮かび上がる。冷たい海風が艦船の甲板に吹き付け、時折、波飛沫が浴びせられる。離島を守るために集結した海上自衛隊の艦隊は、総理の突然の撤退命令を受けて驚愕していた。


「撤退?」と驚く声が、あちこちから聞こえる。航海士は航路図を広げ、最も効率的な撤退ルートを探していた。兵士たちの間では、信じられない、という表情が交差する。若手の自衛隊員は、目を丸くし、「本当に撤退するのか?」と互いに問いかける。一方、中堅やベテランたちは、経験をもとに、冷静に命令を遵守するための準備に取り掛かる。


 艦内では、装備や武器を持ったまま、驚く兵士たちが集まり、何が起こったのか、次の動きは何かと話し合っていた。潜水艦隊もまた、急な命令に戸惑いながらも、通信を確認し、撤退命令の実行を開始する。


 艦の甲板に立つ指揮官は、夜空に浮かぶ星を見上げる。彼の心中は複雑で、国としての方針、兵士たちの安全、そして総理の意図に悩みながらも、指示通りの行動を取る決意を固めていた。


 そして、真っ黒な夜の中、艦船のエンジン音だけが響き渡る。静かに、でも確実に、艦隊は撤退を開始した。



 総理官邸の作戦室には、深夜の闇を割くような煌々とした蛍光灯が差し込み、その下で総理は、疲労の色を一切見せずに作業を続けていた。彼の目は、今や国の未来を切り開くための鋭利な刃のように輝いていた。


「外務大臣。G7各国の首脳には既に連絡したか?」と、総理は問いかける。


「はい、既に各国には日本の立場と求める支援を伝えました。反応は上々です。特に米国と英国は経済制裁の実施を前向きに検討しているとのことです」と外務大臣が報告する。


 総理は一瞬、安堵の表情を浮かべたが、すぐにシリアスな顔つきに戻った。「ASEAN各国とも緊密に連携し、南シナ海の安全保障問題と絡めて、隣国への圧力を強化するよう働きかけてくれ」


「了解しました、総理」


 一方、総理の指示で、日本の大手企業にも隣国との取引を一時停止するよう要請が出ていた。経済の柱であるこれらの企業の動きは、隣国にとっても無視できない圧力となるはずだ。


 時計の針が深夜の3時を指しているのを見て、総理は深い息をついた。「我々の取るべき行動は、まだまだある。一瞬たりとも緩めることなく、日本のため、そして世界の平和のために戦い抜こう」


 作戦室には、その言葉に重ねるような決意の気配が満ちていた。



 総理のプライベートルームは、官邸の奥深く、静寂とソフトな照明が満ちていた。扉を開けると、待っていた夫人が優しい微笑みを浮かべて立っていた。


「大変だったでしょう。しっかり休んでください」と、夫人は柔らかく声をかけた。


 総理は彼女の目を見ながら、心の中の決意を口にした。「こんな事態になってしまった。責任を取るべきだと思う。辞任して君と、どこか静かな場所で暮らしたい」


 夫人は、少し驚いたような顔をしたが、すぐに真剣な表情に変わった。「そんなこと、許さないわ」


 総理は彼女の変わった態度に驚き、「どうして……?」と尋ねる。


 夫人は深く息を吸い、言葉を選びながら話し始めた。「これから、この国では戦争を望む声が吹き荒れるでしょう。あなたの他に、そういった勢力を抑え込める人はいない。私たちの平和な暮らしのために、あなたは前線に立ち続けて」


 総理は、夫人の真剣なまなざしに心を打たれ、彼女の手を握った。「ありがとう。君の言葉に救われるよ。私は日本のため、君との未来のために戦い続ける」

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