第26話
――視界に入るなよ、不細工。気分悪くなるわ。
――お前ほんときしょいよな(笑)。よくその顔で平然と俺らに話しかけられるね(笑)。
――このクラスで一番キモい人? 一択でしょ! 大氏くん!
綾芽さんの姿をいつもの場所で見つけた時に、脳内に響く声があった。それはかつての僕にかけられた言葉だ。受け手のことを少しも考慮せずに放たれた侮蔑は、今も心の深いところに棲み付いて、時折細い針で僕のことを傷つける。
蔑みと嘲笑から身を守るみたいに膝を抱える綾芽さんの姿が、そのまま僕だった。鏡でも見てるみたいな気分で、僕はそこに近づいていく。
「綾芽さん」
雨の音にかき消されてやしないかと心配だったけれど、僕の声は届いたようだ。綾芽さんが腕に力を込めて、ぎゅっと膝を寄せた。拒んでいるのではない。怖いんだ。自分の価値が認められない外の世界と関わるのが怖い。それが、痛いくらいによくわかる。
綾芽さんの座ったところから三歩ほど離れて僕も石段に腰かける。雨雲からとめどなく垂れる雫が地面を打つ音と、時折しゃくりあげる綾芽さんの嗚咽だけが聞こえた。
綾芽さんはそこにいてくれた。いや、行くところがないのだ。似た者同士の僕にはわかる。なんらかの事情で家にはいられないけれど、土曜日のご飯時の時間は、独り身でどこかに出かけるには人目の気になる時間だ。ましてや綾芽さんは、一人でいるところを同級生に見られている。この雨の中、腰を落ち着けられる場所はそう多くない。
「な、なんで、ここにいるんですか……?」
膝の間に顔を埋めたまま、綾芽さんが震える声を出した。
「綾芽さんに会いたくて、歓迎会抜けてきちゃったんだ。宮本さんたちには悪いけど、綾芽さん抜きの歓迎会はなんだか物足りなくってさ」
返ってくる言葉はなかった。気休めだと思われているのかもしれない。
「突然なんだけどさ、思い出話を聞いてほしいんだ。いいかな?」
無反応は想定の内だ。僕は続ける。
「僕は小さいころ、自分のことをゲームの天才だと思ってたんだ。どんなゲームをやっても、母親は上手だ、よくクリアできた、って褒めてくれたし、僕よりもいくつも年上の姉だって、ゲームでは僕には敵わなかった」
母親にクリア画面を見せることで、手を叩いて喜んでくれる。それが嬉しかった。姉が悔しそうに顔を歪ませるのを見て、自信も膨らんでいった。今にして考えてみれば、それは達成感を子どもに実感させる情操教育の一つに過ぎなかったのだけれど、僕は勘違いを増幅させていった。
「僕はゲームの天才だ! 誰も僕には敵わない! 将来はプロゲーマーになっていっぱいお金を稼いでお母さんを楽させてあげるんだ! 今となっちゃお笑い草だけど、本気でそう思ってたよ」
天狗になった鼻っ柱は、小学校に入ってすぐに叩き折られた。自分が大得意だと嘯いていた対戦ゲームで、僕は同い年の子にコテンパンにやられた。「よっわ(笑)」。そう笑った相手の顔をよく覚えている。それは、僕のアイデンティティが崩れた瞬間だった。
ゲームがダメなら、運動だ。かけっこはブービー。
運動もダメなら、勉強だ。九九を最後まで言えるようになったのは、クラスで一番最後だった。
通知表の音楽の項目は、もう少し頑張りましょうに丸が付いた。
写生大会で描いた絵の評価は……まあ、実際に僕の絵を見た綾芽さんには言うまでもないかな。
僕はありとあらゆる面でダメだった。血のにじむような努力をすれば――それこそ、家の周りを毎朝五キロ走るとか、受験生でもないのに一日六時間勉強するとか、人一倍の頑張りをすれば、僕は人並みでいられた。逆に言えば、それだけしなければ僕は、みんなについていけなかった。
「僕は人に誇れるものがあるような人間じゃない。劣等感にまみれた人生を歩んできたよ。それでも、今、僕を求めてくれる人がいる。きっと、綾芽さんだってそうだ」
「大氏くん、は、男の子だから……っ! 男の子に生まれるだけで、みんなの居場所になれる、でも私は女だから! 女で、ブスでなんの取り柄もない!」
痛みに耐えるように手を握った綾芽さんの姿を思い出す。
自分は、いなくてもいい存在。
「そんなことないよ。傍にいてほしいって思ってくれてる人が、綾芽さんにもいる。僕と同じだよ」
「ブスでなにもできない私なんかに、傍にいてほしい人なんか、いませんっ!」
「いるよ。断言する」
「じゃ、じゃあ! 誰なんですか、それ!」
瞳が濡れている。瑠璃色に光る双眸が歪んでいる。それを見て僕は改めて思う。
僕は綾芽さんに近づきたい。物理的な距離じゃなく、心を通わせたいんだ。僕が綾芽さんに対してできることは終ぞ思い浮かばなかったけれど、僕がしたいことはずっとそれだった。綾芽さんと出会った日から、それだけを目標にしてきた。
「僕だよ。僕は、綾芽さんが傍にいてくれなきゃイヤだ」
「そんな慰め――――」
綾芽さんの唇を、僕の唇で塞ぐ。
間近に迫った綾芽さんのご尊顔を眺められないのは残念だけれど、こういう時は目を閉じるのが鉄則だ。たぶん。もちろん、経験なんかないから創作物の受け売りだけどね。
初めてのキスの味を堪能する余裕も時間もなかった。強い力で両肩を押され、あっという間に夢のような時間は終わりを迎える。大きな音に目を開けると、ひっくり返ったカエルみたいな体勢で唇を抑えて倒れこむ綾芽さんがいた。おっきな目をこれ以上ないくらいに大きくして、こちらを見つめている。
「ひぇ、へ、うそ、なんで、え……?」
「こうでもしないと、わかってくれなさそうだったから」採血し始めた注射器のようだ。綾芽さんの顔はみるみるうちに赤くなっていく。「これで、わかったよね? 僕には綾芽さんが必要なんだ」
「ほん、とに……?」
「うん。僕は、綾芽さんが好きだから」
顔から火を噴きそうになりながらも、平静を装って告白する。うまくポーカーフェイスを作れているだろうか。僕の心中は穏やかでない。きゃー! って顔を覆って今すぐ逃げ出したいくらいだ。
「ど、どんなところが、ですか?」
「初めて会ったとき、覚えてる? 職員室で偶然目が合ったあの瞬間、一目惚れだったんだ。それから教室で、教科書見る? って微笑んでくれた優しさ。沖串さんや叶守さんを嫌わないでくれ、って他者を気遣える思慮深さ。口ごもる沖串さんに代わって、デートに誘ってくれたその勇気」
ああ、そうか。僕は思わず笑ってしまう。
「――なんだ、こう考えたら、なにもないなんて川上さんの言葉はやっぱり嘘だったんだよ。綾芽さんには、いいところいっぱいあるもんね」
きゅっ、と綾芽さんの唇が窄まる。潤んでいた瞳の境界から、ぽろぽろと星の雫がシャープな輪郭に沿って零れ落ちた。子どものように泣きじゃくる綾芽さんにもう一度歩み寄って、僕は華奢な身体を抱き寄せる。僕の胸の中で、綾芽さんは泣く。
「わ、わたしっ……おおう、じ、くんの、そばに、いても、いいですか……?」
「僕がお願いしてるんだよ。いてほしいってさ」
「はいっ……!」
今夜の僕は、いつもと違ってキザだ。
そういう日があってもいいよね?
だって、今日の主役は僕なんだから。
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