第23話 綾芽瑠奈の場合・数日前
「綾芽、あんた、当日欠席しろよ」
川上さんの第一声は、狭いトイレの壁と床に反響した末に、唯一ある窓から逃げていった。代わりに窓から差し込む灰色の陽光は、川上さんの顔を陰にする。
私は、自分の足下を見ながら言う。
「ど、ど、どうして……?」
「邪魔だからに決まってんだろ。お前みたいなブス」
「で、でも今朝は、私、参加してもいい、って……」
「建前だってわかんない? 王子の目の前で一人だけ呼ばないとか、できるわけないじゃん」
「え、え、でも……」
ぎろりと睨まれるけれど、勇気を出して反論する。
「わ、私、参加したい。大氏くんが来てくれて一か月を、私も、お祝いしたい」
一か月前から、私の生活は一変した。息をひそめて、なるべく目立たないように過ごすだけだった学校生活、時間割をなぞるだけだった毎日に、彩りをもたらしてくれた。毎日、大氏くんの尊い姿を間近で眺められて、お昼にはお話ができて、私のことを一人の女の子として接してくれる。明日の学校を楽しみにしてベッドに入れることなんて、人生で初めてだった。
そんな日々をくれた大氏くんを、クラスみんなでお祝いする。その輪の中に、私もいたい。
「そ、それに、大氏くんはクラスみんなで、って言ってた、から、私にも、参加する権利が」
「お前、なんか勘違いしてない? いっつも昼休みに二人で話をしてるからって、自分が王子に好かれてるとでも思ってんの?」
「え……?」
どうしてそれを知ってるの? 声なき問いに、川上さんは答える。
「気づかねーわけねーじゃん。王子は学年で、いや、学校で一番人気のある男子なんだから、お近づきになりたいって人が大勢いる。そんな男子が、毎日昼休みにどこか行っちゃうんだからそりゃみんな探すでしょ」
そう、かもしれない。あからさまに探すことはしなくても、もしかしたらお手洗いや飲み物を買うついでに辺りを注意深く見てみることくらいはするかも。それが、全校の規模になれば、見つからない方がおかしい。
「あんたはどうせ、教室だと肩身が狭いからあのじめじめしたところで悩み相談でもしてたんでしょ。王子は優しいから、弱者のあんたに寄り添ってあげてる。わざわざ、時間を割いてあげてんの。お前、哀れまれてんのわかんないの?」
「ち、違う!」反射的に叫んでいた。「大氏くんは、わ、わた、私を仲間だって、言ってくれた。似た者同士だから、同盟を結んで一緒に頑張ろう、って、そう言ってくれた。あわ、哀れんで一緒に、いてくれてるんじゃないよ」
チッ、と舌打ちが聞こえた。
「似た者同士? ハッ! お前、ブスのくせにそれ真に受けてんの?」
「お、大氏くんは、ブスじゃない、かわいい、って、言ってくれた! お休みの日に、一緒に出掛けて――デートだって、してくれたもん!」
「くっ……はは、あははははははははははははははは!」
哄笑が響く。川上さんは心底おかしそうにお腹を抱え、笑い続ける。私は、なにもおかしいことは言ってない。初めてかわいいって言ってくれたこと。初めてのデート。すべて、私の心の宝石箱にしまっている宝物だ。そのはずなのに、川上さんは目に涙を溜めて、道端の石ころみたいにそれを嘲笑う。
「そっか。そうだな。かわいいって、言ってくれたんだな。一緒に出掛けてもくれたのか。あーそりゃ羨ましいな」
ちっとも羨ましくなさそうに言って、それから私の肩を強引に引き寄せた。
綺麗な顔が、無表情だった。
「で、どこまで行ったんだ?」
「え、ど、どこまで……?」
「毎日、昼には密会してたんだろ? 見た目を褒めてくれたんだよな? デートの日にはオシャレした私服を似合ってるって言ってくれたんだろうなあ。それだけ褒めてくれたんなら、キスくらいはしたんだろ? 一か月あったんだぞ?」
「そ、それは……」
「おいおい、まさか手も繋いでないとか? そんなことないよな? 本当にお前をかわいいと思ってるんだったら、キスの一つくらいはしてくれてもいいもんな? お前に拒む理由がないんだから、キス以上のことだって王子は求めてきてもおかしくない。それなのに、どうして王子は手を出してくれないんだろうな? なあ綾芽?」
とっくに答えの分かっている問題を解くのを勿体ぶるように、川上さんはにやついている。
「……お前もわかってるんだろ。全部、王子の建前だよ。お前を元気づけようとしてる優しい嘘だ」
そうじゃない。大氏くんは、本当に私をかわいいと思ってくれている。そう確信できるだけ、私たちは一緒に時間を過ごしてきた。
胸を張って言えるはずなのに、私の口は動かなかった。
川上さんの言うとおりだった。大氏くんは、私をかわいいって言ってくれる。似た者同士、高めあっていこう、って励ましてくれる。でも、それだけだった。それ以上を求められたことはなかった。
「答えろよ!」
川上さんが私の髪を掴む。力はすさまじく、抵抗するけれどびくともしない。「放して!」と喚く私を、川上さんは鏡の前まで引きずった。
「答えろ!」悲鳴にも聞こえる声で叫んだ。「どこの誰がかわいいって!? どこの誰が、王子に好かれてるって!?」
ぐしゃぐしゃになった髪で、泣くまいと眉間に皺を寄せて、見慣れた自分の姿を鏡越しに見つめる。
栄養不足で未熟なままの果実みたいに小さい顔。
カエルじみた大きな目。
枯れ木のように細い身体と、不釣り合いな大きな胸。
「身の程弁えろ! お前みたいになにもないブスを認める男がどこにいるんだよ!」
わかる。わかってる。
そんなこと、わかってるよ。
見れば誰もが吐き気を催す醜悪な姿。そのくせに、キリカちゃんや絵凜ちゃんのように、運動ができるわけでもなければ、美術的センスがあるわけでもない。
鏡に映る自分は、誇れるところのなにもない、ただのブス。
目標も目的もなく生きてるだけの弱者。
すべてわかっていたはずなのに。
自分が何者であるかなんて、誰に言われるまでもなく心得ていたことだったのに。
大氏くんが優しいから、こんな私のことを認めてくれる人がいるんだって、夢を見ていた。自分にはなにもないことから目を逸らして、自分を変えようともせずに漫然とやり過ごすだけだった過去を忘れ、綺麗なものだけを見るようにして、幸せな夢に浸っていた。
だからこれは報いではなく、現実に戻ってきただけ。自分の立ち位置を思い出しただけ。
「宮本にはお前は欠席だって伝えとくけど、日程はみんなに合わせて入力しとけよ。じゃないと王子が心配するだろ。当日になってドタキャンって筋書きにしとくから。そうすれば、王子も無駄にお前を心配しなくて済む」
スマホを取り出して操作し始める川上さん。ディスプレイを見つめる一重瞼も、低い鼻も、大きな顔も、私が焦がれるほど欲しいものを持っているのに――。
「どうして……?」
「あ?」
「わ、私、迷惑かけないようにしてた。出しゃばらないように、目立たないように、してるのに。どうして、なにもない私を――」
「邪魔だっつったろ。迷惑なんだよ。かわいそうな自分をアピールして王子を独占してる、あんたの狡いやり方が気に食わない。そのせいでアタシらは迷惑被ってんだよ」
そっか。そうなんだ。
私って――。
「いるだけで周りに迷惑かけるんだよ、お前みたいなやつ」
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