2 オタク少女、監視する

第8話

 なんということだ。僕は自宅でネットサーフィンをしながら絶望していた。


 綾芽さんの男女比率の極端な偏りについては、そのすぐ後にwikipediaで調べて理解していた。そのことについては特に驚きはない。なんせ美醜が逆転しているくらいだからね。今更男女の比率がどうなっても気にならない。


 僕が嘆いているのは、もっと別のところだった。


「お、オカズが消えている……ッ!」


 僕がスマホのストレージに、文字どおりシコシコ集めた夜の下半身のお供が、ひとつ残らず消えていた。素晴らしい肉感を描いていたえっち漫画、魔女・レナの二次創作えっちイラスト、その他数々の文化的価値を有していたえっちなものの数々が、どこにもない。おそらく常識改変が起こったときに、なにがしかの調整が行われたのだろう。


 最悪、それについては涙を呑む。僕がこれまで集めたいろいろなお宝よりも、ネットの大海にはより多くのえっちコンテンツが山ほど眠っている。僕はトレジャーハンターとしてそれらを発掘すればいいだけだ。


 そのハズだった。


「男女比率の偏りは、こんなところに影響があるのか……ッ!」


 僕は自室のベッドに拳を振り下ろして慟哭した。


 男向けのコンテンツが、存在しない。


 検索しても検索しても、出てくるのは股間を怒張させた男性が、蕩けた目でこちらを見つめるイラスト。全裸の男性同士がくんずほぐれつする漫画。言うなれば、女性が喜ぶものしかなかった。


 考えてみれば当然のことだ。男性よりも女性の方が圧倒的に多いのだから、動くお金も必然女性向けの方が多い。商売としてえっちコンテンツを生み出す側からすれば、わざわざ男性に向けて商売をするメリットがない。


 僕には関係がないはずだった男女比の偏りは、実のところ僕の夜の生活に大きすぎる影響を及ぼしていた。

 雀の涙ほどではあるけれど、男性向けにえっちな格好をした女性のイラストを描き続けているイラストレーターさんもいる。


 しかしながら、ここは美醜逆転の世界。


 イラストが軒並み琴線に触れない。下半身がぴくりとも反応してくれないのだ。たとえ顔が好みじゃなくても、えっちな体つきをしてくれていれば十分致せるのに、それすらも望めなかった。まな板みたいな胸、くびれのかけらもない肉付きにぺたんこのお尻と来たら、どうやって興奮すればいいのかな?


 悩みは晴れないまま、夜が更けていく……。


 *


 悶々とする日々を過ごす僕の癒しは、目下のところ綾芽さんとなっている。


 見目麗しい容貌、凹凸のある体つきは、僕が求めてやまないものだ。当然、僕の欲求を満たすようなことは要求できないし、そんな目で見ること自体が礼節を欠いた行いであることは分かっている。僕は隣の席で咲き誇る、この狂った世界に咲く一輪の花を、優しい目で愛でる。もう、それさえできれば、僕は十分なんだ……。


「綾芽さん、今日も教科書見せてもらってありがとう」

「あ、い、いえ。とんでもない、です」


 現代文の授業終わりに話しかけると、目を逸らして頬を染める綾芽さん。男性に慣れていないからこその反応は、こっちまで気恥ずかしくなってしまう。できることなら、その美しいお顔をじっくりと拝ませてほしいのだけど、それは求めすぎというものかな。


「次は数学かあ。綾芽さんは数学得意だったりする?」

「え、えと、私は、その……」

「僕はそんなに得意じゃないんだよね。証明問題なんか、どうして数学なのに作文しなきゃいけないんだって気分になるよ」

「あ、あはは、そう、なんですね」


 綾芽さんはどこか気もそぞろに、気のない返事をするだけだった。どうしたんだろうと考える間もなく、綾芽さんは席を立つと、「お、お手洗い、です」とだけ言ってぴゅっ、と教室から飛び出してしまった。


 呆気にとられる僕に話しかけてくれたのは、川上さんだ。


「失礼な奴。せっかく王子が気を遣って話しかけてあげてるってのに」

「そんなことないよ。僕が話したいから話しかけてただけだよ」

「そういう優しさも王子の魅力だけど、肝心の綾芽があの調子じゃね」


 綾芽さんが走り去ったほうを見る目が無情だった。川上さんは、僕と一対一で話すときはいたって普通の調子なのに、綾芽さんが絡むと悪口が一言二言多くなる。


「綾芽なんてほっといてさ、数学が苦手なら私が教えてあげるよ。一応、成績毎回上位なんだよね」


 川上さんと僕が話しているところに、周りの女子が加わってくる。僕は、綾芽さんの先ほどの態度に疑問を覚えつつも休み時間を過ごした。


 *


「あ、あの、教室では私と話さない方がいい、です。周りのみんなが、よく思わない、ので」


 お昼休み、例の非常階段で僕は綾芽さんと一緒にお昼ご飯を食べていた。語弊があるな。僕が押しかけて、勝手に綾芽さんの横で弁当をパクついている。これだ。


 実は先日、綾芽さんと掃除当番が一緒になった際に「今度、僕も例の場所で一緒にお昼ご飯食べてもいいかな?」と尋ねたところ、遠慮がちに首肯をいただいたのでやってきたという次第。お友達がいるならお友達もご一緒に! と伝えていたんだけれども、なんでも二人とも最近忙しく、ここまでやってくる余裕がないのだとか。残念。


 閑話休題。


「よく思ってないのかな? だって、僕はただ綾芽さんと普通にお話してるだけだよ」

「クラスの人気者の大氏くんと、日陰者の私が話してると面白くない人がいるのは、事実、です」


 言いたいことはわかる。僕も、前の学校で同じケースに遭遇した。当然、その時は僕が日陰者側だった。「お前さ、クラスでの自分の立ち位置考えて振る舞えよな。不細工が必死こいて女子と話してるの見ると共感性羞恥やべーんだわ」。すごく身勝手な言い分だった。僕は、僕の容姿ゆえに話をする相手まで制限されなければならないのか、と憤ったことを覚えている。


 でも、そういうことは往々にしてよくある。そしてそれは、僕自身の立場が変わったとしても、学校という狭い世界の構造が変わらない以上、こっちの世界でもついて回る。それが、もどかしくもある。


「で、でも、私、大氏くんに感謝、してます」

「感謝?」と問い返すと、綾芽さんは所在なげに瞳を左右に彷徨わせる。

「教室で普通に話しかけてくれたり、た、体育の時も、私が孤立してたら気にかけて声をかけてくれるところ、とか。すごく嬉しくて。あの、ありがとうございます」


 綾芽さんは上目遣いになって続ける。


「だけど、私と話をしてつまらないと思ったら、いつでも、あのあの、無視してくれて、いいです。というか、わ、私と話をしても、つまらないですよね?」

「ええ? そんなことないよ。僕はちゃんと楽しいよ」

「き、気を遣わないで、ください。私、男の子とちゃんと話をできたためしがない、ので。男の子と話をする、ってなったら、頭が真っ白になっちゃって、すぐにどもっちゃうし……」


 綾芽さんは身を縮めるようにしゅんとしてしまったけど、その気持ちは大いにわかる。


「異性と話をするのって、それだけで緊張するよね」

「そ、そうなんです。緊張で、し、舌がもつれちゃいますし、なにを話したらいいのか、わからなくなっちゃうんです」

「でもさ、それなら僕だって同じだよ。女子とおしゃべりなんて数えるほどしかないから、綾芽さんは僕とお話しするの、嫌じゃないかな? って実は今も不安なんだ。そういう意味では、僕ら似た者同士だよね」


 その数えるほどのお喋りも、ほぼ常識が改変されてからのことだしね。


「え、え、大氏くん、冗談、ですよね。似た者同士、なんて……。大氏くんは、これまで女の子からいっぱい話しかけられてるものだと、思ってたんです、けど」


 そう言われるとなんと返すべきか迷う。

 昔からずっと美醜の価値観が逆転していたなら。あるいは男女の比率が著しく偏っている世界なら、もしかしたらそうだったかもしれないけど、これまで僕が生きてきた世界はそうじゃない。僕は今でも、僕に向けられた悪口雑言、嘲笑をありありと脳裏に描き出すことができる。


 あくまでそれが、僕のリアルだ。

 ……なんてことを言えるはずもなく。


「自分で言うのもなんだけど、特殊な環境で生活してきたんだ。女の子とお話なんて恐れ多かったくらいだよ」


 綾芽さんは名状しがたい表情を浮かべた。まあ、僕だって綾芽さんほどの美人が男子と話をしたことがないという事実を俄かには信じがたいんだ。スクールカースト最底辺、異性との交流経験ほぼゼロの僕らは、いわば美醜の価値観という鏡に挟まれた虚像、つまり……。

 僕らは似た者同士だ。


「そういうわけでさ、僕と綾芽さん、似た者同士の僕らがお話しすることで、お互いが異性に慣れていければいいな、って思ってるんだ」

「慣れ、ですか」

「うん。異性に対する免疫がお互いにつけば、ウィンウィンの関係と言えるんじゃないかな。どうだろう?」

「え、え?」


 綾芽さんは目を白黒させた。婉曲だったかな。直接言うのは恥ずかしいんだけど、仕方ない。


「つまり、ええと、秘密の特訓を綾芽さんと僕の二人でやりたいんだ。クラスメイトに見咎められるって言うなら、僕と、綾芽さん……と、そのお友達しか知らない、この場所で、お互いが男子と女子に慣れるために、世間話をする、っていう。いわば同盟だよ。似た者同士同盟! くどいな……似た者同盟?」


 綾芽さんが固まった。ありゃ、さすがに自分勝手だったかな。


「ごめんね。迷惑だったら、ここには近づかないようにするから、安心してよ」


 あくまでこれは綾芽さんの合意があって成り立つものなので、強制するつもりは微塵もない。

 膝に抱えたお弁当箱に視線を落としたままだった綾芽さんが、おずおずと言った。


「い、いいん、ですか? 私が、大氏くんとお話しても。に、似た者同盟、結んでも?」

「僕がお願いしてるんだよ」

「そ、それなら」

 綾芽さんは恥ずかしそうに尻すぼみになりながらも言う。

「わ、私ももっと、大氏くんとお話したいです。だから、あの、よろしくお願いします」


 にこり。


 うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!


「ぐぅ! っはあ、はあ……ッ!」


 その笑顔の尊さ、超弩級。行き場を失った感情が身体を駆け巡り、危うく舌を噛み切るところだった。すんでのところでこらえて、荒く息を吐きだす。


 感謝しよう。心に決めた。


 朝、目が覚めたら常識が改変されていた。美醜という常識だ。戸惑うことも多かったけれど、僕は今、こうして女の子から笑顔を向けてもらえるまでになった。クラスでものけ者にされることはなく、むしろ求められる側にすらなっている。これを僥倖と言わずしてなんと言おうか。


 僕は感涙して天に祈った。

 神様、ありがとう。今まで憎んでいてごめんなさい。


「あ、あの、大丈夫ですか」

「ありがとう、大丈夫。ちょっと取り乱しただけなんだ」


 心配そうにこちらをのぞき込む綾芽さんを制する。

 昼休みは短い。泣いてばかりじゃいられないぞ、大氏義也。この時を有意義なものにしないと。


「それじゃあ似た者同盟の第一歩としてさ、敬語は止めにしない? 僕たちクラスメイトだし」

「えと、そうですね」

「敬語になってるよ?」

「す、すす、すみません! ……じゃなくて、えとえと、ごめんね、さい」

「ごめんねさい?」

「……すみません」


 僕らの旅路は長くなりそうだ。

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