第6話


 翌日。

 昨日のお説教が効いたのか、クラスメイトのみんなは必要以上に僕にべたべたしたりすることはなくなった。それでも休み時間のうちはお話をしに僕の席にやってきては、ああでもない、こうでもない、とたわいのない世間話をする。気の毒そうな目つきで片山くんがこちらを見ている様子が視界に入るけれど、僕は僕で普通の高校生っぽい体験ができて満足している。


 それに、転校してきたばかりの僕にとってこの学校の情報をみんなから教えてもらえるのは有難いことだった。購買のパンの人気銘柄とか、厳しくて有名な先生のこととか、僕の知りえない情報というのは、枚挙にいとまがない。


「それで英語の和山なんだけど、課題を忘れてくるとしつこく詰めてくるから要注意ね。たとえ男子でも容赦ないって噂だから。逆に数学の峯川はゆるっゆる。授業中にスマホ使おうが漫画読もうが、全然こっちのこと気にしないの。覚えてて損はないから」


 その中でも、僕に懇切丁寧にマメ知識を教えてくれるのは、僕の前の席に座っている川上さんだった。なにを隠そう、綾芽さんをイジメているらしいその川上さんだ。昨日の今日で話しかけられたときは警戒したけれど、しかし話してみるとなんてことはない。右も左も分からない僕に対して、こうして昼休みに時間を割いていろいろと教えてくれるほどには人情味に溢れている。


 うーむ。聞いていた話と違う。


「ありがとう、川上さん。いろいろと教えてもらえて助かるよ」

「好きでやってることだから、王子は気にしないの!」


 川上さんが、茶色っぽい髪をかき上げる。


「そういえば、この学校って校則は自由な感じなんだね。びっくりしたよ」

「え? ああ、髪色ね。今は結構、そういう学校も多いでしょ。大氏くんの前の学校は、こういうのダメだったん?」

「うん。川上さんの色だったら地毛で通せないこともないけど、綾芽さんくらい染めてたら一発で指導だろうなあ」


 今は空席となっている隣の席を見る。


 日の当たり具合によって銀に見えるグレーと、その内側に覗くピンクの色合いは、綾芽さんの瀟洒な顔つきにとてもよく似合っていた。


「綾芽、ね。アイツ、Remuの真似なんかしちゃって、全然似合ってないのにどうしてあんなことしてんだろうね、マジウケるわ」

「あ、あれ? そうなんだ?」


 どうもこっちの常識では似合ってないことになるらしい。難しい……。


 綾芽さんと言えば、昨日の教科書見せてくれた件について、昼休みになった今ですらお礼を言うことができていない。話しかけようと思ったところで、綾芽さんはふらりとどこかへ消えてしまうのだ。個人的には、せっかく隣の席になったから普通に話ができるくらいにはなりたいんだけどな。こんなことなら昨日の体育の時に話をしておくんだったよ。


 昼休みが終わってしまう前に、お手洗いに行くことにした。この学校には男子トイレが奇数階にしかない。機を逸すれば非常に危ういことになる。これも郷に入っては郷に従えというヤツか。


「あれ、ここじゃなかったっけ」


 トイレを目指して一直線に歩いてきたはずなのに、目的地にはそれらしきところが影も形もなかった。うーん。やっぱり転校して昨日の今日じゃ、まだ校内を完全には把握できてないみたいだ。


 来た道を逆戻りする。途中、窓の外の景色を見ながら歩いていると、人気のない非常階段脇に人影が見えた。五月も中旬の今の時期、外でご飯を食べるにはちょうどいい時期だ。また今度、片山くんと一緒に屋上でお昼ご飯を食べたいなあ。


 その時、ちらりと人影の横顔が見えた。


「綾芽さんだ」


 あの特徴的な髪色と女神像みたいにシャープな輪郭は見間違えようはずもない。昼休み始まってからすぐに姿が見えなくなってしまったけど、あんなところで昼食を取っていたんだ。


 お礼を言いに行ったら、邪魔になるかな。うーん。でも、一言だけだ。一言、ありがとう、と言うだけ。すぐに退散すれば大丈夫だろう。


 僕は自分自身に言い訳をしてから、外靴に履き替えて非常階段の方へと向かう。

 目指してみれば、なんともうまい具合に死角が非常階段を隠しており、人目に付きにくい空間を作り出していた。いわゆる穴場だ。こういう場所があると、ぼっちにはいざという時に役立つんだよね。綾芽さん、いい場所知ってるなあ。


 どれどれ、綾芽さんは――。


「……ってさ、アンダーシャツ着てなくって、鎖骨が――」

「えー、でもそれって……――」


 油断していた。


 僕の視線の先には、確かに綾芽さんがお弁当の包みを膝の上に広げて、そこにいる。しかし、そこにいたのは綾芽さんだけではなかったのだ。その隣に、二人の女子がいる。


 一人は肩甲骨のあたりまで伸びた金髪に、小柄な体躯が小動物的に愛らしい女子。

 もう一人は、女子にしては高い身長と、涼やかな目元を備えた黒髪の女の子。


 どちらも、見覚えのない女子だった。それでいて、どちらの女の子も綾芽さんと同じくらい整った顔をお持ちだ。一人の男として、これだけの美人を忘れるはずもないし、別のクラスの女子なのだろう。


 昨日、今日と僕が見た限りでは、綾芽さんは常に一人だったので、彼女も僕と同じぼっちの仲間だと勝手に同視していた。実際、クラス内にはそんなに親しい人はいないと僕は見ている。


 でも、彼女には他のクラスに友人がいたのだ。そして、昼休みは友達と一緒に過ごす。


「なんということだ」


 生粋のぼっちである僕にはその発想がなかった。


 それじゃ、邪魔をしちゃいけないじゃないか。速やかに退散しよう。

 気付かれないうちに踵を返そうとしたけれど、その刹那、金髪の小動物女子と目が合った。


「あっ!」


 反応は素早かった。


 金髪の女子が短く声を上げると、飛び上がるなり脱兎のごとく駆けだして姿を消してしまった。それまで普通に話していた綾芽さんは、いきなりの友人の行動に口をポカンと開けているだけだ。


 僕が金髪女子に目を取られている間に、黒髪の女子の方も忽然といなくなっていた。もしくは、幻だったのかも……。


「えっと、ごめん、綾芽さん。友達を驚かせちゃったみたい」

「ひぇっ! あ、あ、大氏くん、あの、あれ? どど、どうしてここに」


 突然の闖入者に綾芽さんも逃げ出そうとしたけれど、膝にお弁当箱が乗っていては立ち上がることもできない。オドオドとするだけだった。目を白黒させて、状況の呑み込めていない様子。


 ……昨日から思っていたんだけど、綾芽さんって不思議な人だ。街中で見かけたら僕みたいな陰キャチー牛は怯えてしまうこと間違いなしのいかついヘアスタイルをしているのに、それに似合わず気弱な態度が目につく。そのギャップがまた魅力的、と言えばそれはそうなんだけどね。


「綾芽さんの姿があっちの廊下の窓から見えたんだ。お邪魔かなとは思いつつ、こっちに来てみたんだよ」

「なにか、御用でしたか?」

「昨日、教科書を見せてもらったお礼と、届くまでの数日、ご迷惑おかけしますということを伝えたくってさ」

「ご、ご丁寧にありがとうございます……?」

「いやいやこちらこそ、感謝してます」

「そんなそんな、恐縮です」

「いやいやいやとんでもない」

「ふ、ふふ」


 すごくよそよそしくお礼を言いあう滑稽な状況に、思わずと言った感じで綾芽さんが笑みを漏らした。


 その笑顔の可憐さと言ったら! 

 あまねく男を恋に落とす天使の笑み!


 そして言わずもがな、僕も男だ。僕の中の欲が顔をのぞかせる。

 それすなわち、もっと綾芽さんと仲良くなりたい! という欲望だ。女の子と懇意になるなんて、以前なら身を亡ぼすほどの過分な欲望だけれど、常識が改変された今ならイケる気がする。


「迷惑じゃなかったら、このまま少しだけお話してもいいかな」目を見開いて固まる綾芽さんに、僕は努めて笑顔で言い訳がましく続ける。「せっかく席が隣だし、この機会に仲良くなれたら嬉しいんだ。ほら、はやくクラスに馴染みたいしね」

「私、なんかでよければ、はい。全然、えと、大丈夫です」


 やったね。お許しをいただいたので綾芽さんから少しばかり離れたところに腰を下ろす。すぐ隣に座れるほどの度胸とコミュ力は残念ながら持ち合わせていないのだ。


「改めて、邪魔しちゃってごめんね。ここにいた二人って、お友達だよね?」

「はい。あの、私の隣にいたのが四組の沖串おきぐし絵凜えりんちゃん。もう一人が六組の叶守かなもりキリカちゃん、です」


 ということは、あの金髪の愛くるしい子が沖串さん。クールで画になる方が叶守さんか。綾芽さんを含めて三人が揃ったところは実に壮観だった。ここが女神の寄り合い場所かあ……と勘違いしちゃったくらいだ。


「どっちも男子が苦手で、だからあの、さっきは大氏くんの姿を見てびっくりしていなくなっちゃったんだと思います。あ、でで、でも、二人とも本当にいい子なので、あんまり悪く思わないでほしい、です」

「まさか。むしろ悪いことしちゃったって反省してるんだよ。僕こそ、あの二人に嫌われてないといいけど」

「それは、大丈夫、です。多分。大氏くんみたいにすごくかっこよくて、私みたいなブスにも優しく接してくれる素敵な人、嫌う女子はいない、ので」


 わお。昨日からというもの、これまで無縁だった言葉がよく僕の修飾語句として出てくるなあ。素敵だなんて嬉しいけれど、なんだか照れくさい。


 おっと照れてる場合じゃない。訂正することが一つだけある。


「綾芽さんはブスなんかじゃないよ。むしろ、かわいいよ。そのグレーの髪とかすごくよく似合ってるし」

「え、え……? あ、その、そんな、やめてくださいからかわないでください! あ、あ、なんかの罰ゲームですか。そうですよね。だってそうじゃなきゃ私なんかに……」

「ちがうよ本心だよ! 綾芽さんはブスじゃない! かわいいよ!」

「~~~~~~~~~~~~っ!!」


 耳まで真っ赤になった綾芽さんが、僕の視線から逃れようと両手で頭を抱えた。その隙間から、こちらをちらちらと観察するオパールの瞳が濡れている。その豪快な照れっぷりに、さしもの僕も冷静になった。……ええと、考えてみれば女子に面と向かってかわいいだなんて、僕はえらく恥ずかしいことをしていないか? どうにも、美醜が逆転していると知ってから、僕は舞い上がっているみたいだ。戒めよう、自分自身。


 猛省する僕の隣で、綾芽さんがボソッと呟いた。


「大氏くん、って、ブス専、なんですね」


 その言葉、そっくりそのまま返したいね。むしろ僕以外のみんながブス専なんだよ。


「あの、私からひとつだけ、いいですか? あ、あ、もちろん、嫌ならいいです、けど」


 意を決して言い出した様子を見て断れる人がいるだろうか。いや、いない。これ反語。


「昨日の体育の時に偶然見えちゃったんですけど、その。大氏くん、Tシャツの下って、なにも着ないんですか?」

「Tシャツの下? 着ないよ」


 それが一般的じゃないかな。


「あ、えと、アンダーシャツとか、着たほうがいいと思います」

「アンダーシャツ? なにそれ」

「こういうの、です」


 綾芽さんがスマホで素早く検索してこちらに画面を向ける。アレだ。野球部がよく着てる黒くて薄いぴっちりしたヤツだ。


「これって、本格的にスポーツやる人が着るものだよね?」

「そそ、そんなことないです。男の人なら、必須、です。あの、女子は結構、男子の素肌とか、興味あるので。無防備だと、すぐに鎖骨を覗かれたりとか。最悪の場合、その、ちょ、直接肌を触られたりとか、しちゃいます」

「女の子が、男の裸を? ふーん。珍しいこともあるんだね。じゃあ、綾芽さんも興味あったりするの?」

「そ、そそ、それは、あの」


 綾芽さんは視線をきょろきょろと惑わせてから、耳まで真っ赤にして小さく頷いた。


「鎖骨かあ。こんなのだったらいくらでも見せられるけどなあ」


 ワイシャツの首元を伸ばして覗き込むと、綾芽さんが興味深そうにこちらに視線を寄こす。「ほら、見る?」と指し示すと、綾芽さんはめちゃくちゃ悩んだ挙句に「や、やめときます。他の人に知られたら、恨みを買いそうなので……」とめちゃくちゃ口惜しそうに項垂れた。


「でもさ、普通は逆だよね? 男の方が女の子の裸に興味があると思うんだけど」

「え、え、そんなことないです。覗きとか、セクハラは女の人が男の人にする方が圧倒的に多いです。あの、男女の比率の関係ももちろん、あると思います、けど」


 言っていることがよくわからなくなってきた。


 僕が知っている情報では、性犯罪の比率は男が女性よりも何倍も高かったはずだ。痴漢なんかはその最たる例で、だから女性専用車両なんてものがあるんだし。それに男女の比率と言うのはどういうことなんだろう。


「男女の比率って言ってたけど、それってどういう意味? 世界的に見れば男女はほぼ半々で、それは日本においても変わらないよね?」

「えとえと、世界的に女性の方が圧倒的に多い、です。男の人のほぼ三十倍、とか。だからあの、男の人を求めて、毎日女はサバイバル、なんです」


 それって、つまり……。

 どういうことだ?

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