第3話 綾芽瑠奈の場合


「お、おはよう、ございます……」


 今日も今日とて、私は誰に聞かれるでもない挨拶をして教室に入る。いつもは聞こえてるはずだけど無視、という感じなのだけど、今日だけは違った。


「転校生来るのって今日だよね!? しかも男子!」

「ねねね、どう? メイクばっちりでしょ? 変なとこないよね?」

「アヤは大丈夫だって、かわいいもん!」


 クラス中に響く嬌声が私の挨拶をかき消していた。私はそそくさと席に着きながら、みんなの言動を反芻する。


(そっか、転校生くんが来るのって、今日だったっけ)


 先週末の昼休みのことだった。

 興奮気味にクラスメイトの田中さんが教室に駆けこんでくるなり、「ウチのクラスに転校生が来るらしいよ!」と言い放ったのだ。なんでも、職員室で英語の宿題の提出忘れを叱られていたら、「唐沢先生、来週転入する男子の件で云々」と、学年主任の先生と話しているのを偶然聞いてしまったのだとか。


 具体性のある話に、教室はすぐさま沸いた。転校生自体が珍しいのに、それがなんと男子だなんて。年がら年中、男子に飢えている私たち高校生にとって、それは青天の霹靂、棚から塩キャラメルスフレパンケーキ(税別一四〇〇円)くらいの吉報だった。


 もちろん、私にとってもそれは嬉しい知らせだ。


 男性という存在は、現代においてかなり希少だ。男性が生まれる比率を一としたら、女性は三十程度と言われている。つまり、三〇人に一人の割合でしか、男性は生まれない。


 何故、ここまで偏っているのか?

 それはわからない。


 現代科学においても特定されていないために、統計としてそうなっているという結果だけが、確固とした事実として残っている。


 だからこそ、その希少な男性と触れ合える機会が増えるというのは私たち女性にとってはなによりも嬉しいことだ。普通に生きていれば、男性は女性に対する警戒感が強いせいか、よっぽど容姿が優れているとか、考えが合うとか、そういったアドバンテージがなければ恋仲はおろか、友達になることすら難しいのだ。学校という一種の閉鎖空間で、強制的にでも関わりを持てるのは学生の一種の特権でもあった。


 しかもそれが、クラスメイトだなんて!


 普通の女の子なら、級友以上の関係を夢見て心躍るところだろう。


(私には、関係ないことだけど……)


 ちょっとだけ浮き上がった自分の心が沈んでいく。

 さっきも言ったように、男性は女性に対する警戒心が強い。それはひとえに、男性の希少性に起因する事件が昨今多発しているからだ。


「男子高校生を拉致監禁した女性を逮捕 『彼を私だけのものにしたかった』」

「二〇代会社員の男性にストーカー行為 『気が付いたら自宅を特定していた』」

「路地裏に連れ込んで強制わいせつした女三人 『性欲を抑えきれなかった』」


 世間を騒がせるのは、こんな事件ばかりだ。女性はケダモノ。男性がそう捉えても仕方のないことだ。


 現に、このクラスにも既に二人の男子がいるけれど、どちらも私たちとは積極的に関わろうとはしない。もちろん、クラスメイトとして交わす挨拶や世間話程度は応対してくれるけれど、放課後に一緒にお出かけとか、お昼休みに机を合わせて一緒にお弁当、なんてことは以ての外だったりする。


 近くて遠い、高嶺の花。

 それが男性だったりする。


「ねえ、綾芽。綾芽も楽しみだよねえ、転校生!」


 私が自席で筆記用具を鞄から取り出していると、前の席で盛り上がっていたクラスメイトの川上さんが話しかけてきた。にやにやとした笑みを顔に張り付けている。教室であまり話しかけられることのない私は、突然のことに狼狽えてしまう。


「え、え、えと……」

「もしかしたらさあ、その男子とイイ感じになれるかも、とか妄想したりするだろ。転校生が座るの、ちょうどお前の隣の席だし」


 川上さんが私の隣、空席となっている机に目を向ける。先生が運んできた机と椅子のセットは、教室の雰囲気を否応なしに上げた。ちょうど昨日のことだ。


「隣の席なのはそう、だけど、い、イイ感じって?」

「そりゃ決まってるでしょ。恋人同士、とか」

「こ、こここ、恋人!」


 私にとっては一生できるはずのない恋人。その響きは、しかしながらすごく甘美に響く。私が、もしも恋愛などというものを物語や他人の体験談ではない形で、ほかならぬ自分が経験出来たら……。


「ふへ、ふへへへへへへ」


 笑いだって漏れてしまうと言うものだ。

 しかし、現実は厳しい。


「安心しろ、綾芽。お前みたいなドブス、隣の席だろうと転校生に見向きされるわけねーから」


 ぎゃははははははは、と川上さんとその他の女子が笑うのを聞いて、私は笑顔のまま固まる。言い返そうという気すら起きない。その代わりに私は、鞄からプリントを取り出して、馬鹿笑いする川上さんを尻目に教室を飛び出す。


「わ、分かってるし。私だって、そのくらい」


 プリントを四つ折りにしてジャケットの内ポケットにしまい込む。それから、女子トイレの洗面台に備え付けの鏡で自分の顔を確認する。


 栄養不足で未熟なままの果実みたいに小さい顔。

 カエルじみた大きな目。

 枯れ木のように細い身体に、不釣り合いな大きな胸。


 ここまで醜い女性というのも、なかなかいない。私は自分の姿を眺めて、しみじみ実感する。


 たとえばもう少し顔が大きかったり、目が細かったり、平らな体つきだったりと、どれか一つでも美人の条件に合致していればギリギリアウト、くらいだったのに、私は醜女の三連単を当ててしまった余裕でアウトの稀有な存在なのだ。


 これでも、人気モデルのRemuちゃんを参考にファッションやメイク、髪に気を遣っているつもりだけれど、元の素材の悪さが祟って、憧れのRemuちゃんには程遠いブスが鏡の中からこちらを見つめている。


「はあ……」


 それに加えて、どもってしまう癖まで合わされば、私なんか弱者女性そのものだ。


 こんな私でも、見初めてくれる男子がいないだろうか、と物心ついてからの十数年間願い続けてきたが、思い知らされるのはいつだって、男子から汚物扱いされる非情な現実だった。


 なにを今更落ち込んでいるんだろう。そんなこと、分かっていたことだ。


 気を取り直して、職員室へ向かう。できるだけ早く出してほしい、と言われていた進路調査票を提出しなきゃ。私は忘れっぽいから、思い立った時に行動を起こさないと先生に迷惑をかけてしまうかもしれない。


「失礼します」

「いや、でも、僕みたいな不細工が――」


 職員室に入った途端、男の子の声が聞こえた。低くて太いけど、どこか柔らかさのあるその声の持ち主は、唐沢先生と話をしている。


 もしかして、という予感がした。


 この人が、転校生……?


 どくん、と胸が高鳴った。私は誘蛾灯に引き寄せられる羽虫のように、そちらへ近づく。


 一七〇センチを超える身長に、細身の体だった。制服の上からでもわかる男子特有の筋肉質な背中が大きく見える。私が名も知らぬ転校生くんの背後に立ってもまったく気づかないのは、男子としていささか無警戒に過ぎる。


 って、私はなにをやっているんだ。これでは世の不埒な女性と同じじゃないか。


「お話し中すみません」


 気を取り直して、本来の目的を果たすために転校生くんのことは意識の外に追いやる。


「綾芽、おはよう。どうした?」

「進路調査票、提出、です」

「お、早いな。提出物を早く出してくれるのはお前くらいなもんだよ。他の奴にも見習わせたいよ、まったく」

「早く出してくれると助かる、って仰ってたので、あの、それだけです、はい」


 教室から逃げ出すための口実も込みです、とはさすがに言えない。


「それより綾芽、ちょっと髪色変えたか?」


 先生は細かいことにまで気が付く人で、引っ込み思案な私をよく気遣ってくれる。私がクラスメイトからイジられているときも、度が過ぎれば叱ってくれる良い人だ。私がお礼を言うと、「私もこの顔だろ? 学生の頃はよく馬鹿にされたからな。教師の立場を使って、顔の良いガキを叱って昔の憂さ晴らしをしてるんだよ」と冗談めかして励ましてくれる。


「あ、あ、Remuちゃんがこの色にしてて、その、真似してみようかと」

「似合ってるじゃないか」


 お世辞でもそう言ってもらえると嬉しい。私も、結構気に入っているから。


「あ、ありがとうございます。その、じゃあ、私はこれで」


 あまりお邪魔しても悪い。勢い込んで振り返ったところで、転校生くんと目が合った。


「あっ」


 息が止まる。


 なんだ、このイケメン!?


 え、待って。ヤバい。しんどい。理解が追い付かない。この人モデル? 芸能人? 本気でイケメンすぎる。なだらかな曲線をえがく一重瞼に、大きな顔。低い鼻はまさに神の造形。巷を騒がせているアイドルグループも、歌舞伎町のナンバーワンホストだって、きっと彼には敵わない。一目見ただけで惚れること必至。そのあまりの美少年ぶりに、私はしばしの間、見惚れてしまった。


 私が我を取り戻せたのは、彼のその魅力的な小さい瞳が驚愕の色に塗りつぶされていったからだ。なにに驚いているのか、なんてことは愚問だった。なぜなら、私が転校生くんの顔を見るということは、相手も私の顔を見ているのだ。これまで、私の見苦しい顔を視界に入れて驚かなかった人はただの一人もいない。


 私は可及的速やかに顔を背けて、その場を離脱する。


(やっちゃった……)


 教室へ戻る足を急がせながら、私は後悔していた。

 彼とは顔を合わせるべきじゃなかった。


 あれだけの美少年なんだ。日の差さない暗い場所から見ることができるだけでも、私の人生にとってみれば一生分の幸せに違いなかった。だから、同じ教室にただ存在してくれているだけでよかったのに、私は、自分のポカで彼に認識させてしまった。


 私という妖怪が、教室の隅の方に巣食っていることを。


「お、ドブスが戻ってきた。無駄に身だしなみでも整えてきた?」


 教室に戻って来て早々に嫌味を言われるけど、私はそれどころじゃない。自席に着いて頭を抱える。


 後悔。後悔後悔後悔。


 きっと転校生くんは今後、私のことを常に警戒するだろう。自分に身分知らずの熱っぽい視線を向けていないかどうか。ワンチャンを狙ってアプローチをかけてくるんじゃないか。自分を慰めるために盗撮するのではないか。エトセトラ。


 そうなったら、私はきっと彼のことを視界に収めることすら簡単にはできなくなる。「お巡りさん、同じクラスの変態が、僕のことをねっとり見てくるんです!」なんて通報されたら、一発で実刑判決を食らう自信がある。


「ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

「うわっ! 急に気持ち悪い声出すなよ! ほんときしょいな……つーか、なんか顔赤くない? 風邪? 近寄んなよな」

「え、え、顔、赤い?」

「おいゲロみたいなツラ見せんな」

「あ、すみません」


 でも私、顔赤いんだ。そりゃそっか。

 あれだけの美少年を、画面越しではなく生身の至近距離で見た経験がない。近づく前に逃げられてしまうことが多かったからだ。気付けば、胸がうるさいくらいに高鳴っている。私の胸の内は後悔でいっぱいのはずなのに、どこかであの尊みを感じることができて喜びを感じてもいた。


 矛盾する感情のせめぎあいに悶々としているうちに、ホームルーム開始の鐘が鳴った。


 それまでサトウキビ畑みたいにざわめいていた教室が、静けさに満ちる。少しの緊張と、多くの期待がない交ぜになった独特の雰囲気。


 廊下の床を進む足音が、教室の前で止まった。誰かが生唾を飲み込む。

 ガラリと音がして、先生が入ってくる。

 転校生くんは……いない。

 あれ?


「あー……しばし待て。皆が期待している転校生は、もう少しで来る」


 先生が素早く教室中の雰囲気を察知してくぎを刺す。


 その期待の転校生くんは、ホームルームも終わりの時間になってやって来た。

 転校生くんは伏し目がちにクラスに入ってきたけれど、クラスの様子を見て、なにかに驚いたようだった。


「よーし、それじゃみんなのお待ちかね、今日からこのクラスに転入する転校生を紹介するぞ」


 先生の言葉は、ほぼみんな聞いていなかった。

 というか、聞ける状況になかった。


 彼の姿を確認した女子は一人残らず、その美形っぷりに白目を剥いて失神したり、隣同士で頬っぺたをつねりあって現実感を確かめあったり、無言で転校生くんをスマホのカメラで盗撮しまくっている。私だって、事前に彼を見ていなかったら、今頃失禁していたかもしれない。


「おい、お前ら聞いてるのか。そこ! 勝手にスマホを出すな。……自己紹介なしでいいのか?」


 全員が姿勢を正す。別世界に旅立っていたものも戻ってくる。彼の第一声を聞き逃すのは、万死にも値する愚行だ。

 もじもじとしていた転校生くんは、一瞬にして静まり返った教室と自身に集められた視線に気圧されていたみたいだけど、意を決したように口を開く。


「し、市立小牧高校から転校してきます……きました、大氏義也(よしや)です。これから一年間、よろしくお願いします」

「正統派美少年来たああああああああああああああああああああああああああああ!」


 教室が揺れた。

 ぺこりと折り目正しくなされたお辞儀。はにかんだ笑み。大事なところで噛んじゃったお茶目なところ。そのすべてが、教室中の女子のハートを射抜いたのだ。教室中ハイタッチの嵐。輪を作って踊りだす人もいる始末。興奮の坩堝は、そう簡単に収まりはしない。


「……正統派美少年?」


 その只中にあって、当人――大氏くんは不思議そうな声色とともに、あたりをきょろきょろし始める。本気で誰が美少年なのかをわかっていない様子だった。そんな馬鹿な。


「それじゃ大氏、お前は廊下側一番端の列、一番後ろな」

「先生、質問タイムはー?」

「とっくにホームルームの時間は終わってるんだ。各々勝手にやれ! ほら、現文の杉本先生がもう廊下で待ってるんだから、お前ら速やかに準備しろ! いいな!」


 あちこちからブーイングが起こるけれど、先生は意に介さずに教室を飛び出していった。


「マジのマジ? ほんとにあのイケメンがクラスメイト!?」

「もうすでに一目惚れなんですけど(笑)」

「匂い嗅ぎて~」

「ねえ、誰か話しかけてみてよ」

「ええ!? でも……」


 教室中から囁きが漏れ聞こえてくる。それが聞こえていないのか、もしくは興味がないのか、俯き加減で席に着く大氏くん。アンニュイな表情すら芸術作品じみていて、思わず見とれていた私は、一時間目の授業が始まったことに気付かなかったくらいだ。


(き、教科書、教科書……)


 すっかりテキストを机に並べ終わって一安心。授業に集中しようと教科書を開くけれど、文章は一ミリも頭の中に入ってこない。それはもちろん、隣の席の男子が気になるからだ。私の眼球は、あの初々しい美少年の姿を捉えたくて自然と右隣に吸い寄せられる。


 大氏くんは、必死に鞄をまさぐっていた。なにを探しているんだろうとしっかり見てみれば、彼の机には筆箱だけ。テキスト類がなにもなかった。次いでため息。諦めたように頬杖をついて黒板を見始めた。


(もしかして、教科書忘れたのかな)


 でも、おかしい。それなら「教科書貸せよ」の一言くらい、男子ならなんてことないはずだ。なにせ周りの女子は、どうやって大氏くんに近づこうかと今も思考を巡らせている。そのきっかけを貰えるなら、尻尾を振ってテキストの一つや二つ、いくらでも差し出すのに。隣の私に見せてもらうことに抵抗があるなら、前の席の川上さんに声をかければいい。


 私が不思議がる間にも、大氏くんはどこか不貞腐れたように真っすぐ前を見つめるだけだった。


 その横顔が、烏滸がましいんだけど、鏡の中の私を見てるみたいで、だから。


「あ、あ、あの、教科書、見ます、か? き、教科書、ないんです、よね? よかったら、机くっつけて、一緒に見たり、とか。えとえと、迷惑だったら、全然、いいんですけど」


 口下手なのに、一気に喋ったものだから、間投詞が多分に交じって醜くなってしまった。しくじりに顔が真っ赤になるのがわかる。けれど、大氏くんはそんなことも気にした様子はなく、その偏差値七十オーバーの顔を驚きに染める。


「…………いいの?」

「は、はい。私なんかでよければ、一緒に見ましょう」


 いいの? なんてとんでもない。

 私は翻意される前に、さっさと机を持ち上げて移動する。


 それが、彼と私のファーストコンタクト。

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