第4話

「おい! 聞いているのか!!」


 ブラック企業のオフィス内に、響き渡る怒声。

 突然の問いかけに答えるなら、ぶっちゃけ聞いていない。

 昨日、自宅に戻るのに手こずってしまい少し寝不足なのだ。


「おい、鷹宮たかみや! おまえ……俺様の話を無視するとはいい度胸だなぁ?」


 目の前で声を張り上げているのは、大量の脂肪を溜め込んだオレの上司。


 デスク越しに、ギシギシと小さな音が聞こえてきた。

 耐荷重を超えているのだろう、椅子が悲鳴を上げている。


 上司はイラついているのだろう。

 指先でデスクとトントンと叩きながら口を開く。


「これだから高卒は使えねぇ! 尊敬すべき偉大な上司様が注意してやってるってのによぉ!」


 大卒であることを誇り胸を張る。

 胸と腹。比べるまでもなく、腹の方が前に出ているので『おそらく』という但し書きが付いてしまうが……


「おまえみてえな低学歴の無能は、他じゃ一日も勤まらねぇ。そんなゴミを雇ってやってんだ、感謝の気持ちを込めて自主的に働けってんだよ!」


 強烈な学歴マウント。

 これで一流大学を出ているなら、まだ分からなくもない。


 本人はMARCH《マーチ》を卒業したと言っているが……

 実際に通っていたのは、地方のFラン大学。


 なぜオレがそんなことを把握しているのか。

 それは少し後に起きる事件を通して知ったからだ。


 ちなみに上司の『自主的に働け』とは、タイムカードを切らない労働のこと。

 要するに、昨日の休日出勤で勤怠を付けていたことが気に食わないらしい。


 そういえばこの会社には、労働基準法という言葉が存在しなかったな。

 そんなことを考えながら、チラリと周囲の様子を確認してみる。

 するとこちらを伺っていた視線が一斉に逸らされた。


 自分にターゲットが移るのは避けたいのだろう。

 社員たちはこちらを気にしてはいるが、一切助けようとはしない。


 パワハラ、セクハラ、モラハラ……ハラスメントの数え役満。

 横領に反社との繋がり。黒い噂の絶えない絵に描いたようなブラック企業の役職者。

 下手に関わってもろくなことにならない、そう判断するのも当然のことだろう。


 よく今まで、こんな環境に耐えられていたな。

 自分のこととはいえ、素直に感心してしまう。


 オレの胸元に収められた一通の封筒。

 それは出すことができなかった退職届。


 思い出してみれば、退職を考えたのは1度や2度のことではなく。

 隙間時間にネットを使って、法律を含め色々と調べ準備もしたものだ。


 だが忙しすぎて転職活動をする時間など存在しなかった。

 次が見えない状態で状況で収入を失う、そんな選択肢など選べるはずもない。


「低学歴は仕事の仕方ってヤツを分かってねぇ!!」


 上司は大声で罵倒を繰り返す。

 しかしその内容はオレの頭に1ミリも入ってこない。


 別に無視しているわけではない。

 上司の存在よりも今、別に気になることができてしまったからだ。


 かつてのオレは上司の存在に怯えていた。

 罵声を浴びせられれば、恐怖で震えていた。

 だが今は……何の恐れも感じない。


 なぜ上司の罵倒に恐怖を感じないのだろう?

 それは積み上げた10年間の影響だろう。


 何度も命を懸けて挑んだダンジョン攻略。

 オレが対峙した黒騎士の脅威と比べれば、上司などただのブタ――


 いやそれはブタに失礼か。

 ブタはああ見えてキレイ好きだ。


 目の前の上司は、小汚いただの中年オヤジに過ぎない。

 そんなことを考えていると。


「――――ッ」


 上司の顔が一瞬で真っ赤に染まる。


「おまえ! 何笑ってやがる!!」


 その言葉で初めて、自分が笑っていたことに気付いた。

 目の前のオッサンが滑稽で、つい口元が緩んでしまったようだ。


 ドンドン


 上司の握りしめた拳がデスクに叩き付けられる。

 大きな音が周囲に響き、乱雑に積まれていた荷物が浮き上がった。


 デスクの上から落ちそうになっているカードキーが視界に入る。


 休日返上で倉庫整理させられたこともあったな。

 倉庫内で、上司があのカードキーを使っていたことを思い出す。


 そしてまた始まる高卒を揶揄しながらの学歴マウント。

 繰り返される同じ内容の罵声。


 最後だと思って耳を傾けてみたが……

 これ以上、聞いていても時間の無駄にしかならない。


 そろそろ今日、ここに来た目的を果たすとしよう。


「……あ? 何だソレは?」


 上司は怪訝な表情で、目の前に突き出された封筒に視線を向ける。

 それはオレが突き付けた退職届。


「もしかして日本語、読めないんですか? これは『たいしょくとどけ』って書いてあるんですよ?」

「てめぇ……」


 親切心からの言葉だったが、煽っているように聞こえたらしい。


 更に赤くなる上司の顔。

 額にはピクピクと動く血管が浮き上がっている。


 人間の顔って、こんな赤くなるのか……

 どうでもいい知識を一つ得てしまった。


 目の前では油ギッシュなオッサンが、身体をワナワナと振るわせている。

 また罵声か? さっさと退職届を受理してほしいんだが……


 しかしオレの予想とは異なる反応が返ってくる。

 頭皮の見え始めたオッサンは一度臭い息を吐くと、いやらしい笑みを浮かべながら口を開く。


「フッ、退職したいなら半年前に申し出る必要がある。ウチの就業規則も知らんのか? 高卒は常識ってヤツがなくて困るな」


 このオッサンは何を言っているのだろう?

 思わず返す言葉に呆れが混ざる。


「退職は2週間前で問題ない。就業規則より民法が優先されるって知らないんですか? 大卒なのに? そんなことも?」


 グギギと音が聞こえてきそうだ。

 オッサンはテカっている顔を歪めながら立ち上がると――


「おまえっ!」


 伸ばされた油脂がにじむ手。

 ネバネバしていそうなので、触れられたくない。


 沸き上がる嫌悪感。

 考えるより先に身体が反応し、一歩後ろに下がる。


 ――ガシャン!


 周囲にバラまかれる荷物。

 カードキーや書類が、こちらにも飛んできた。


 体勢を崩しデスクに覆いかぶさっている、潰れたカエルのような生き物。

 様子を見ていた社員たちは、無様な姿に目を細め、笑いを堪えるのに精一杯のようだった。


「高卒底辺の分際で――ッ」


 怒りを露わに立ち上がるモンスター。


「あっ、これちゃんと受け取ってくださいね?」


 動物性油の滲み出る頭をペシペシと封筒で叩き、そのまま額に押し付ける。

 すると脂ぎった皮膚に退職届がピッタリと張り付いた。


 ここでやるべきことはもうない。

 背を向け事務所から出るため歩き出す。


「――――!?」


 声にならない叫び声が響き、オレの頭部へと迫る気配。

 首を軽く横に倒すと、小さな影が頭があった場所を通り過ぎた。


 壁にぶつかり砕ける陶器。

 こちらに向かって、カップを投げてきたようだ。


 非常識極まりない。

 どうやら元上司は人を襲うタイプのオークだったらしい。


「おまえ……ただでは済まさんぞ!」

「はいはい、退職届の受理お願いしまーす」


 ひらひらと手を振りながら、オレは事務所を後にした。





 ――――――

  あとがき

 ――――――


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