第3話 由美のお隣さん

 そこに、一人のすらりとした男の子が入ってきた。切れ長の目がなくなるほどの柔和な笑みを浮かべて、さらさらの黒髪が、風にあおられて乱れている。

「おーっす」

「おい、小松。俺、やっぱしくじってたわ。二十四番まで落ちちまった」

 まさに常連というやつなのだろう。あちこちに片手をあげたりしてあいさつしているその小松という少年に、吉川が馴れ馴れしく声をかけた。


「うそ、二十四番だったの?」

 と、一瞬目を丸くした後、顔一杯に例の穏やかな笑顔を浮かべて、

「やるじゃん、吉川」

 と、からかった。

「おう。もう、次回はぜってー頑張るかんな」

 と、少ししょげる吉川に、親指で大丈夫、と合図してから、こちらに向いた。由美に気がついて、少し不思議そうな顔をしている。


「小松、外、風が強かったの? 髪の毛ぐしゃぐしゃだよ」

 良子が笑って指摘すると、小松は、おどけたように瞳を一瞬上に向けた後、両手で無造作に髪を直すと、良子に向かって、これで直った?と、頭を指さして目だけで尋ねた。

「後ろ、まだ少しはねてる」

 由美が、恥じらいを含んだ声で指摘すると、小松は再び髪に手をやった。その手がまた大きくて、指がすらりと長かった。小松が髪を直しながらどんどん前に歩いてくるので、由美は、こ、こっちに来る、来る、と心の中で実況しながら、どんどん緊張が増していった。


 彼は、おっとりと由美のところまでやって来ると、ちょっとかしこまった顔になった。

「ああ、こちらは、田口由美さん。春期から通ってるんだって」

 良子が気を利かせて、紹介してくれた。

「ど、どうも。田口由美です。よろしく」

 由美は、ドギマギしながら言った。小松は、柔和な笑みを浮かべて軽く頭を下げ、由美の隣にそっと荷物を置いた。


「あ、あ、ごめんなさい」

 それを見て、由美は、慌てて立ち上がった。塾というところは、狭くできているのだ。長机の一番端に座っている者は、奥に座る人が来るたびに、立ち上がってどいてあげないといけないのだ。小松は、小声でごめんねと言うと、長い足で一またぎして、由美の隣の席に腰を下ろした。由美は緊張しながら、そっと隣に腰を下ろした。


「小松さあ、三浦先生の社会の宿題やった」

 ノートや筆箱を取り出す小松に向かって、良子が尋ねた。小松が笑顔で「まだ」と答えるのを聞いて、由美は急にオロオロした。三浦先生って誰? どんな宿題? 

「ああ、ごめんごめん」

 由美が顔色を変えたのを見て、良子が慌てていった。

「塾の宿題の話じゃないよ。学校の宿題の話。うちの学校に三浦っていう嫌な先生がいてね、そいつが本当に面倒くさい宿題を出すのよ。そうか、小松もまだやってないなら、いいや」


「二人は、同じ小学校なの」

由美が、二人の顔を見比べながら尋ねると、

「うん、クラスも一緒でさ。ね、小松」

と、良子が答えた。

「でさ、由美ちゃんは、吉川と同じクラスなんだって」

「ああ、そうなの」

そう言うと、小松は初めて由美を真っ直ぐに見た。

「だから、最悪だねって言ってやったんだ」

と良子が言うと、小松は笑いながら、

「でも、あいつ、いつもはもっと前の方にいるんだよ。あんな後ろに行くの、珍しいんだ」

と、由美に説明した。


「そうなの。意外」

 由美が思わずそう言うと、小松が、

「え、吉川って、学校ではどんな風なの」

 と聞いてくるので、

「う~ん」

 と、由美は少し考えてから、

「あほって感じ」

 と、答えたら、

「じゃ、ここと一緒だ」

 と言うので、思わず三人で笑ってしまった。


 その時、授業が始まるチャイムが鳴って、算数の木村先生が、いかめしい顔で教室に入ってきた。由美は、笑いの残る顔で前を向きながら、さあ、始まるぞ、と、気を引き締めた。


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