さすらい少女≪律≫
詠
のらりくらり
ざくざくと、砂利道に足を落として前へ進む。もう随分とこの道を歩いているが、目的の町は見えてこない。さっきの行商、ほんとに信用してよかっただろうか。
「あーあ、ついてないなぁ」
慶応4年。またの名を明治元年。彼女はさすらい人だった。
彼女は自分の生まれた土地も、親の名前も、自分の名前も知らない。ましてや、家族そのものを知らなかった。
後から、自分は遊郭の河岸見世で産み落とされ、そのまま人身売買業者に引き取られたのだと分かった。そこからは暴力、暴力、暴力。今でもはっきりと、男の拳が自分の体を打つ感覚を覚えている。
暴力に晒され続け、朝には死んでいる周りの女子供を見ても、特にこれといった感情は浮かばなかった。しかし、一体何を思ったのか、彼女は齢八の時に男の元を抜け出し、今ではこうしてさすらい人としてのらりくらりと旅している。
この旅路を始めるまでに、お世話になった人は数えきれないほどいる。彼女はいつか、その人たちに恩返しをしたいと考えていた。
「あら、お嬢さん。見かけない顔ね、どちらから?」
「ただのさすらいです。あの、宿屋ってどこにありますか?」
そうこうしている内に無事町に着いた。早速人が話しかけてきたので、宿の場所を聞くことにしよう。女性は丁寧に教えてくれて、おまけに是非食べてとおむすびを二つもくれた。気前のいい女性だ。きっとこの町の人からも好かれているだろう。
そんな思考を巡らせながら、私は教えられた道をすたすたと歩いていた。もうすぐ宿が見えてくるかと思ったら、誰かの叫び声が聞こえてきた。
甲高い女の悲鳴は、にぎやかな町を一瞬にして静寂に包む。まったく、厄介ごとにはあまり引っ掛かりたくないのだけれど。
私は家の瓦屋根へ跳んで着地し、そこから飛び移りながら全力疾走で悲鳴の上がった場所を目指した。
おそらくここだろうと瓦屋根から飛び降りると、一人の女性に向けて刀を振るう男の姿があった。まったく女一人に刀でなんて、そう思い少し呆れつつ真剣を手で受け止めた。ざくっと肉が切れる音がして、私の手から真っ赤な鮮血がこぼれ、地面にしみ込んだ。
「なんだ小娘。邪魔をするな」
刀を振るった男は、野太い声で私にむかってそう吐き捨てる。随分強気のようだ、私が抵抗するようなら殺してくるだろう。
「事情は知らないけど、町中で人を殺めようなんて愚かだね。」
私がそう冷たく言い放つと、男は口元をにやりと歪めた。だめだ、もう何を言ったってこの男と斬り合いになるだろう。久々に動くが、体がなまっていないといいな。
「俺に畏縮しないのは褒めてやろう、小娘。しかし、それが運の尽きだ」
「それはあんたでしょ」
男の挑発に最大限反発して、私は愛刀に手を掛けた。刀の柄に優しく愛でるように触れて、今からよろしく、という意思を伝える。
先に動いたのは男の方で、刀を私に向かって振りかざしてきた。
遅い。
私は素早く抜刀し、愛刀の棟を巧緻に相手の刃にぶつけた。わざと刃こぼれしている部分に当てたのだ。
小さな亀裂が広がり、ぴしっという頼りない音と共に相手の刀は砕け散った。真っ二つになった刀の破片が地面に刺さり、夕焼けの光を反射して輝いた。
「これに懲りたらさっさと失せな。刀の柄の方も捨てていけ」
「ひっ…!!」
先刻の威勢のよさはどこへいったのやら、男は細い悲鳴をあげるとたどたどしく逃げ去っていった。そんなに怖い顔したかな、私。
男が捨てていった刀の柄を手に取りつつ、私は地面に転がって腰を抜かしている女性を振り返った。
「怪我はないですか?」
「はい!助けていただきありがとうございます…!!」
涙を浮かべつつ感謝してくれる女性の瞳を見つめながら、私は少し頬を緩ませた。
ずっと張りつめていた私の表情がすこしほころんだのを見ると、女性は安心したように口を開いた。
「あの、名前だけ教えてくれませんか?」
女性の家まで送ったところで、彼女は私にそう問うた。私は女性の瞳をまっすぐ見つめ返すと、しっかり覚えていてくれますようにと心を込めて言った。
「律。それが私の名前」
慶応4年。さすらう少女、律の旅は、まだ始まったばかりである。
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