未定

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第1話

 地上12メートル程。


 背中を預けていたフェンスがギシッと軋むのを聞いて、そっと背を浮かせる。


 足元から数十センチ先には足場はない。

 学校の裏庭、まともに管理されていないそこは草や木で荒れている。人通りもなく、飛び降りるには絶好の場所だった。


 ただ一つ、コンクリートでないのが悔やまれる。


 弄ぶように吹く風が髪を靡かせて、僕は小一時間ほどボンヤリと下を見つめていた。


 怖くはない。ただ、あの土の柔らかさで万が一にも奇跡の生還をしてしまったら、と考えると場所を変えるべきかと悩んでいたのだ。


 でもどれだけ悩んだって、ここより好条件なところなんて思いつかない。

 ここより人通りがなくて、僕でも簡単に入れて、これだけの高さがあるところなんて……。


 いいか。

 何処だっていいか。失敗したら、また落ちればいいだけ……。


 念入りな計画なんてない。でも勢いで来たわけでもない。もうずっと、何年も考えていた事だった。


 ずっとずっと、逃げたかった。解放されたかった。生きることが地獄なら、死ぬことは天国だと思い至ってからも死ぬことが怖くて流されるように生きていたけど。


 それももう、今日で終わりだ。


 どうせ死ぬなら、自分で終わらせたい。


 自分のやりたいこと、思い通りに出来る。初めて、きっと。


 大きく大きく息を吸って、肺の中に溜まった外の空気が汚れてから、静かに空へ向かって吐き出した。


 あとは一思いに。踏み出して、重力に逆らわないまま…………。



「ちょ、何やって……!? ダメだ!」


 ふわっと、浮くんじゃなくて落ちる。頭の重さに逆さまになろうとして、誰かが力強く僕の腕を掴んだ。


 ガクンッ、肩が揺れる。掴まれた腕が痛い。


 足は完全に離れて、空気に揺れている。腕一本に全体重がかかっているから、掴まれた僕も、掴んだ誰かもブルブルと震えていた。


「……誰?」


 逆光で人となりがよく見えなかった。


 制服が同じだから、この学校の男子生徒だと思う。教師じゃなくてよかったと、もう関係ないのにホッと胸を撫で下ろした。

 教師は苦手だった。いつも何かを探るように僕を見る。気軽に声をかけてくる程で、真相を吐き出させようと目を光らせてるような気がして。


「……うっ! ダメだ、持ち上がんない……! 這い上がってきて!」


 左手で掴んでるフェンスがギシギシ音を立てているのを、僕は黙ったまま聞いていた。


 這い上がる気なんてない。


「手を離してくれ」


「はぁ!? は、離せるわけない! 落ちちゃうよ!」


「落ちていいから、離して」


 ズル、段々汗で手が滑ってズレていく。


 このままじゃこの人も落ちてしまいそうだ。関係ない人を巻き込む事に胸が痛む。でも、死んだら関係ない。


「落ちたら死ぬよ」


「わかってるよ! だから早く登って来てってば!」


「……僕は登らない」


 無傷で生還して、この事が問題になったらどうなってしまうか想像もできなかった。


 どうせ、ギリギリのところで手を離すだろう。

 人間には限界がある。頑張っても頑張っても、限界がきたら手放すしかないのだ。


 僕が手放すのは命で、彼は僕だった。


「死んだらダメだよ……っ! 辛いこと、あったってっ! 生きてれば、何とかっ、なるん……だから!」


「…………そうかな」


「そうだよ!!」


 確かに生きていれば何とかなるのかもしれないけど。でも、何とかって?

 ただ息をして、心臓が動いているだけの生にしがみつく理由がない。僕はこの世に未練がない。


「どうして死んだらダメなんだ?」


 とても焦った様子の彼は、僕の異様に落ち着いた雰囲気に戸惑っているようだった。


「こんな時に何言って……!」


「離していいよ」


「ダメだ、離さない! だって、死んだら終わりだから! この先にある希望も変化も、死んだら無くなる!」


 耐えられなくなったのか、足を縁に引っ掛けて片手からフェンスを手放すと両手で僕の腕を掴む。

 前屈みになって、位置がズレたからか彼の顔がハッキリと見えた。


 生命力に満ちた、強い瞳だった。

 必死で僕を助けようとしている。小柄な体をしているのに、もう我慢の限界に近いだろうに、それでも僕を離さないと瞳が訴えていた。


 他の人より大きな目に埋まる、真っ黒の瞳。そこに、僕がきっと映っている。ただ僕を、映している。


 どうしてそんなに必死になれるんだ。


 僕と彼は、同じ学校に通っているだけの赤の他人だ。

 偶々僕が死のうとしていたところに鉢合わせただけの関係なのに。どうして、そんなに必死になれる?


 関係ないのに。お互いのこと、何も知らないのに。

 それなのに、彼は命をかけるっていうのか。


「君の名前は何ていうの?」


 ……何故かこの手を、手放したくないと思った。


 生きたいわけじゃない。生きていたくない。死んでしまいたい。


 でも、この手を離したくない。僕を掴む、この手を。


「キミが、這い上がってきたらっ、教えてあげるよ!!」


 僕は少しだけ考えて、足元の段差へ爪先を引っ掛けた。ダラリと垂らしていた右手をそっと持ち上げて、屋上の縁を掴む。


 全体重を支えていた彼は、僕の行動にホッとしたように笑った。ブルブル、振動が限界だったと伝えてくる。


 だけど僕は、もう生きる気はなかった。


 登るふりをして彼の負担を軽くしたところで、今度は僕の方から彼の腕を掴む。

 細い腕だ。僕と、どっちが細いだろうか。


 多分彼は僕よりも小さい。だからほんのちょっと引いてやれば、僕に抱きつくようにして落ちてくる。


「な……っ!? やめ、なにす……っ!?」


「一緒に、いく?」


 尋ねたけど、彼に返事が出来るほどの余裕はないとわかっていた。それでも、頷いて欲しかったのかもしれない。


 潔く右手を手放して、僕は彼をギュッと抱きしめた。


 そして、そのまま、背中から重力に従って落ちていく。


 グングンと空が遠ざかる様を、何も思うことなく見つめた。






 彼の悲鳴は途中で止むことなく、その時までずっと響いていた。


 彼を抱きしめていた僕は背中から落ちたけど、正面から落ちることになって彼はとても怖かっただろう。


 死ぬつもりだってなかったはずだ。ようやっと死の世界へ旅立てる上に、一人だけじゃなくなった事に安堵していた僕と彼とじゃ、気の持ちようだって全く違ったと思う。


 僕は彼を煩いとは思わなかった。むしろ感謝すら感じていた。


 だって今まで、僕は欲しいものが手に入った事なんてなかったから。やりたい事だって欲しいものだって、して欲しいことだって小さな頃はきっと沢山あったはずなのに。気がつけば僕は無欲だった。

 ただ無欲に生きて、いつからか生から逃げることばかり考えてた。


 そして僕が知る人達は、僕を都合よく扱うだけだ。

 目は僕を見ているはずなのに誰も僕を見てくれなかった。カメラの向こうにあるはずの欲望も、確かに僕に向けているのだろうけど、あくまでカメラに映った僕を見ているだけだ。


 きっと初めてだ。彼は初めて僕を見てくれた。


 初めて僕を掴んでくれた。だから僕は惜しくなったんだ。

 一人でこの世から消えるのが惜しくなった。


 非人道的だとわかっていたけど、彼と一緒に消えたくなった。


 とても申し訳ない事をしたと思う。


 ごめん。ごめんなさい。許されない。でも、それでも一緒に……


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