ラブレター

柴田彼女

ラブレター

 あ、この女、俺だけの恋人じゃなかったんだ。

 よりにもよって、俺の憧れのバンドマンと、俺の部屋で寝るだなんてなあ。ああそうか、元よりそういうタイプの女だったのか。


 俺は、自身の1Kのボロアパート、狭いパイプベッドに寝そべる素っ裸の男女を見つめながら、は、と短く笑った。だって、笑うしかねえだろ。


 バカみたいに甘やかされて育ったんだろうなってのが透けて見える女だった。

 でも、だからこそ明け透けで、自由で、本能的で、よく笑ってめちゃくちゃ食うくせにテーブルマナーだけは完璧なこの女のことが、俺は心の底から好きだった。

 まったく売れないどころか、小さなライブハウスの合同ライブのチケットを配り切ることすら苦労している俺にはまったく釣り合わない、クソほど裕福な家庭で育ったお嬢様のアズサは、俺の音楽を、

「かっこいーから好き」

 と常々言っていた。そんなかっこいーから好きだと思われていたはずの俺が憧れてきた、あのバンドの、ベースの男と、俺の女が、寝ている。

 俺の部屋で。

 俺のボロアパートで。アズサの高層マンションではなく。


「あれえ、早いじゃん」

 アズサは慌てて言い訳するでもなく、しくしくと泣き出すでもなく、ただそう言って立ち上がり、

「えー、帰ってくるの早いかったね。きょう練習の日だったじゃん。メンバーとの晩ごはんは? 行かなかったの?」

 小振りの胸やきゅっと吊り上がった尻を隠すためにだらだらと喋りながら下着を纏い始める。憧れのベースは質のよさそうなボクサーパンツを履きながら、

「はは、お前全然焦んないの? ブン殴られるとか、刺されるとか思ったりしないわけ?」

「この人にそんな度胸ないよ」

 ふたり笑っていた。他人から憧れられるようになるには、人の心を失わなければならないんだろうか。二人からは一切の申し訳なさを感じ取れそうにない。

 男は細身のデニムを履くと、気だるげに煙草に火を点けた。一本ちょーだい、とアズサが言って、すぱすぱ他人の部屋で一服に興じている。ああ、アズサって煙草、吸うんだ。俺は恋人だったはずの人間の、新たな一面を見つける。この期に及んで。


「あ、の、すみません、このアパート、禁煙なん、です……てか、あ、あの、その」

「あ。まじで? それはごめん」

 男が煙草を揉み消す。それからオーバーサイズのパーカーを被って、アズサがワンピースのサイドチャックをあげたところで、

「んじゃ、お邪魔しましたー」

 そういって、俺の恋人だったはずの女を連れて玄関を出て行った。俺とすれ違いざまにアズサは、

「あたしの荷物は全部捨てちゃってオッケーなんで」

 そう言って、顔の横で小さく手を振ってみせた。

 相変わらず、めちゃくちゃかわいかった。




 誰より憤っていたのは、アズサと俺を知り合わせた桐谷だった。

「あの子、ネジ吹っ飛んでるとは思っていたけど、お嬢様が考える精一杯のキャラ設定だと思ってた。本物の阿婆擦れだったんだね」

 あんなことをされても、元恋人のことを悪く言われるとなぜか胸が痛む。本物の阿婆擦れに恋をしていた自分を哀れんでいるだけかもしれないけれど。あんなでも、アイツは俺の恋人で、俺は本気で恋をしていたんだよ、たぶん、きっと。あの日から二週間、今でもそんなことを考えてしまう。


 桐谷はアズサと中学からの幼馴染で、桐谷もなかなかに金のある家で育ったのだという。学生時代はそのせいか色眼鏡で見られることが多く、金のある家庭で育っているという事実がコンプレックスだったらしい。俺の知らない世界には、俺には一生縁のない苦しみがたくさん存在する。

「アズサも高飛車お嬢様キャラが固定だったからさ、まあ似たような背景かなってなんとなく話すようになって。まあ僕は大人しくしてたってこともあって、傍目には『巻き込まれて可哀想』みたいな感じだったらしいんだけど。僕はそれでも結構楽しくやってたつもりだったんだけどさ」

 でも、今回の件はキャラとか世間知らずだからとか言ってらんないよね。僕的にも、界隈的にも。桐谷が言う。

「まあ……堂々と他人ん家で浮気してんじゃねえよって気持ちはあるよ」

「恥かかせてやりたいとかないの。復讐したいとか。陥れたいとかさ」

「あー、どうだろな…………そんなことより早く忘れたいし慰めてくれる新しい彼女ほしい」

「佑は優しいね。僕なら家族総出で社会的に殺しにかかってるところだと思う。小金持ち同士の、かわいいかわいい小競り合いだよ」

「わはは、何が“小金持ち”だよ。本物が言うと迫力が違うな。腹にくる何かがある」


 桐谷には笑ってごまかしたけれど、復讐なんか、したくてしたくてたまらなかった。

 アズサと男が帰った後、布団一式洗ってしまおうとベッド周りを片づけていたら、使い終わり口の縛られたコンドームが壁とベッドの透き間に四枚も落ちていた。うち三枚はカピカピに乾燥している。俺は、使い終わったゴムは口を縛らずティッシュで包んですぐにごみ箱へほうる。

 あの女、たらし込みの常習犯だったんだろうなあ。なんで気づけなかったんだろうなあ。やり手の女だったんだなあ。全員違う奴が使ったゴムだったんだとしたら、俺、死ぬほど惨めだなあ。

 なあ桐谷、俺あの女のことほんとに殺したいんだよって言ったらお前はどんな顔する?

 なあ桐谷。俺、“全部”を殺したくなっちゃってるんだよ。

 どうしたらいいと思う?




【ねえ、本当にあの女に復讐しちゃおうよ。やっちゃおう】

 俺の部屋の、アズサの物だけを収納する透明ケースから、俺の前では絶対に着けたことのないドエロい下着が何枚も出てきて、それを桐谷に鼻で嗤ったふうにLINEで送信したところ、彼からそんな返事が来た。

【なに、金持ち界隈ってまじで脅迫とか殺人とかって常習なの? なら俺お前と縁切りたいんだけど】

 茶化したように返事をしながら、奇妙なくらいの桐谷の怒りをやんわりと往なす。

【違うよ。アイツの残り香を殺そうって話。金持ちでも殺人はご法度だよ。日本は法治国家なんでしょ】

 法がなければ平気で殺すのかな。桐谷って思ったよりヤバいやつなのかもしれない。

【残り香を殺す?】

【俺の友達に、アイドルとか専門の衣装デザイナーがいるんだけど、そいつにもこの話したんだよ。もちろん名前も出してないし、詳細は適当に足し引きしたけど。そしたら、「俺ならマネキンに元カノの名前書いてめった刺しにしちゃうね。すっきりしそうじゃん」って言ってて。あ、これすんごいいい案だなと思ったんだよね。下着、残ってんでしょ? それ着させて刺したりなんかしたら、行為にも怒りのリアリティしっかり出そうじゃない】

 ああ、金持ち界隈ってやっぱりちょっとヤバいのかも。そうは思いつつも、俺は未だくすぶっていたアズサへの恨みが再び燃え滾る気配を感じる。

【マネキンの処分に困るよ】

 やる、やらないには触れず、現実的な問題を提示する。グチャグチャに割れた、惨殺された、辛うじて下着だけを纏うマネキン。どこでどう処分したらいいんだ。下手したら通報されてしまうんじゃないのか。

【僕、アズサの実家の、別荘の場所知ってるよ。そこに埋めちゃえばいいじゃん。別の別荘買ったからもうそこはしばらく使ってないって言ってたっけかな。少なくとも年単位ではバレないんじゃないの】

 年単位でバレなくても、いつかバレたらおしまいだろ。自分の下着を身につけたグチャグチャのマネキンが別荘の庭から掘り起こされたら、さすがの阿婆擦れでも度肝を抜かすだろう。警察に通報もするはずだ――いや、アズサは俺の家に置いていった下着の色柄まで把握しているだろうか。何を、何枚、どの家に置いているのか。

 きっとあの女には俺のような存在が他にもたくさんいて、俺はそのうちの“一匹”だったに違いない。本気で好きだったからこそ、アズサの思考が読み取れるような気がしてしまう。

【誰かがきたら、庭木の手入れに来ましたって嘘吐けばいい。車とかスコップとかそういうのは俺が支度するよ】

【なんでお前そんなに乗り気なの】

 ふと疑問が口をつく。すると桐谷は端的に、

【好きだったからだよ】

 と、即座に返信してきた。

 ああ、コイツもそうだったんだな。そのうえで、俺に譲ったんだな。そしたらこんなことになったってことか。好きだったくせに、なんでわざわざ俺にアズサを紹介したんだろうな。人間って変な生き物だなあ。

【うーん、業者っぽいツナギもほしいところだよな、お揃いのやつ。やっぱこういうのってカーキ色とかなのかな】

 軽い口調で返す。

 桐谷の言うとおりだ。桐谷のためにも、俺はアズサの残り香を殺そう。

 殺して、過去にしてしまおう。

 俺は、あの女の記憶を全部、殺してしまおう。



 翌週、土曜日、朝八時半。

 アパートの前にワンボックスカーが停まって、中から桐谷と、衣装デザイナーだという桐谷の友人が揃って出てくる。

「どうも、桐谷君から話は聞いてるよ。衣装デザイナーやってます、宇部って言います。本当、大変だったねえ。きょうはしっかり刺して、すっきりしようね。あ、マネキンは僕のお古だから気にしないで。きょうはお祓いの手伝い、兼、ヒトの恨みを間近で見ることによって自分の知見を広げる遊びだと思って来ているから、いろいろ楽しもう!」

 あ、この人のの認識、基本はお祓いなんだ。もしかしてとは思ってたけど、やっぱりズレてる人なんだ。よろしくお願いします、と握手を交わしながら、小さく頭を下げる。

「運転も宇部さんがしてくれるよ。マネキンは後ろに積んであるって。見る?」

「いや、まあ、いいかな……」

「宇部さん、結構リアルなの選んでくれたんだよ。よかったね」

「ああ、まあ……」

 俺を置き去りに、二人の好奇心だけが異常な速度で突っ走っている。アズサの別荘までは高速を使ってここから二時間半ほど。

「きょうはよろしくお願いします」

 俺はもう一度二人に頭を下げてみせた。



 車内には質のいい音楽が常に薄くかかっていた。宇部さんの趣味だという。

「いい曲でしょう? 自分はアイドルの衣装制作がメーンなんだけど、だからこそいろんな音楽を聴くようにしていて。国内だけじゃなく、海外とか、あとその他の芸術にもアンテナを張るようにしているつもりなんだけどさ。インプットが偏ると、アウトプットも偏っちゃうじゃない? あれ、いやあ、偉そうな顔してすっごい当たり前のこと言ってるな。恥ずかしいね。聞かなかったことにして」

 ああ、そういえば、俺、聴くジャンル偏ってるな。そもそも音楽も芸術って括りでいいんだ。その他の芸術ってなんだ? 絵画とか? あとはなんだろう、彫刻? 家具って芸術かな。インテリアって言えばいいんだろうか――宇部さんの話を聞いて、なんとなく、自分の音楽のさもしさの原因を突きつけられた気がしてしまう。俺は、昔から視野が狭いんだ。だから、アズサのことも気づけなかったんだろうか。

 車は順調に走る。窓向こうの景色がどんどん緑にまみれてきた。春ももうすぐ終わる。じきに夏が来て、そのころにはひとりの生活にもすっかり慣れているのだろうか。桜、今年は見れなかったな。そんなことを考える。

「次で降りるよ。そこからは三十分足らずでアズサの別荘に着く」

 桐谷がいう。俺が「ああ」と返事をして、宇部さんが無言でウインカーを出す。



 別荘、という言葉のイメージから北欧によくあるようなログハウスをイメージしていたが、そこは白い外壁の、ただバカデカい敷地に建つバカデカい家だった。アズサたちがしばらく来ていないという桐谷の情報を裏付けるように、木々は生い茂り、あちらこちらに雑草が伸びている。

「使わないにしたって、手入れくらい業者に頼めばいいのにね」

 桐谷がぼやき、宇部さんが「成金はこんなもんなのよ」と笑う。俺は、成金ってこんなもんなんだ、と知る。

 広い敷地、別荘地、近くに家はなく、ある程度大きな音を立てても気づかれることはなさそうだ。駐車場の隅にワンボックスカーを停める。

「まず、一応着替えようか」

 桐谷が宇部さんと俺にカーキ色のツナギを渡す。誰かに見られる可能性は限りなく低そうだが、とりあえずの対策は必要だろう。業者っぽく偽装するためには、形から入るのが一番だ。俺たちは少々窮屈な室内で、腕や足先をぶつけ合いながらなんとか着替えを済ませる。


「ひとまず、外観チェックからと行きますか」

 宇部さんの掛け声で、俺らは車外へと出る。春の終わりの曇り空、山奥、下に着こんだTシャツは半袖で、少し冷える。

 玄関横の草だらけの道を進む。巨大な灯油タンク、俺の部屋くらいありそうな物置小屋らしき建物、そこを過ぎ庭に辿り着くと枯れ果てたプールのある広場があった。

「お、プール。いいね、放置するには勿体ないし、マネキン殺害会場にはぴったりのスペースだ。ありがたい」

 躊躇いなく宇部さんがプールに飛び降りる。深さは百五十センチを少し上回るくらいだろうか。ちょうど、小学校にあったような飾り気の少ないそれだった。俺と桐谷も宇部さんに倣ってプールの底に足を着ける。ところどころ枯れ葉が水たまりみたいに積もっていて、踏めばシャクシャクと音を立てた。

「人目も気にしなくてよさそうな立地だし、プール脇の草の少ない場所ならなんとか掘れそうだね。プールにマネキン運んで、好きなだけ破壊してもらおう。一応包丁もあるし、金づちもその他諸々持ってきてはあるけど。足で踏んだりってほうがすっきりしそう?」

 俺は曖昧に、どうすかね、と半笑いで返事をして、それから空を見た。

 風が吹くたび木々が揺れて、それは俺には金属音のように聞こえる。プールの底に下りているぶん、いつもより空が高い。ツナギの腰の位置がしっくりこない。スコップは上手に扱えるだろうか。宇部さんは自分の仕事道具だったはずのマネキンを壊されて何とも思わないのだろうか。こういったことすら芸の肥やしとしてしまうのが芸術家だみたいなことをさっき言っていた気がする。春先の森の中、指先がほんのりと冷たい。桐谷は「好きだったから」と言ったけれど、どういう本心でアズサの残り香の殺害に加担しようとしたんだろう。靴の中に小石が紛れ込んでいる気がする。


「じゃあ自分、マネキン持ってくんね。桐谷君も細かいものの運搬手伝ってー」

「了解です」

 宇部さんと桐谷が車のほうへと戻っていく。

 俺はプールの底に一人取り残される。強い風が吹く。プールの中で掻き混ぜられるように枯れ葉が踊る。俺の顔に数枚の葉が当たる。痛い。頬を手で覆う。掌まで冷たい。

 少しずつ手をずらして目を覆う。顔を隠す。蹲る。小さく丸まる。膝の透き間に顔を突っ込んで、耳を塞ぐ。それでも金属音に似た木々のざわめきは収まらない。

 迷子の子どものような気持ちだった。

 俺だけが置き去りだった。

 俺の周りだけがとめどなく動いていて、俺だけがずっと同じ場所に留まっている。



「大丈夫? 思い出しちゃった? 具合悪い?」

 桐谷が心配そうな顔をして俺に声をかける。その手には金づちと、ケースに入った包丁、ニッパーと小振りのバールが握られている。少し遅れて宇部さんもきて、

「なに、腹でも痛いの? 手持ちに痛み止めはないかなあ……」

「いや、そういうんじゃないんで。大丈夫です」

「いやあ、大丈夫って顔じゃないよ、君。桐谷くん的に見てもそうでしょ?」

 桐谷が頷く。俺は宇部さんが担いでいるマネキンを見る。薄クリーム色の肌は完全に露出していて、ご丁寧にアズサによく似た茶髪のかつらが固定されていた。俺はプールの床に胡坐をかく。桐谷と宇部さんも俺と向かい合うように三角形に座る。宇部さんの後ろにアズサを模倣したマネキンが横たわらせられる。


「なんていうか、ちゃんと、憎いんです」

「うん」

「アズサのことは憎いんです。今でもちゃんと憎いんです。殺したいくらい、憎いんです。だから二人にもこうして協力してもらってるんだと思います。憎いっていうのだけは、事実なんです」

「うん」

「でも、だからってアズサに似せたマネキンをぶん殴ったり、潰したり、木っ端微塵にしたりって、なんか、それは違うっていうか、しっくりこないっていうか……何か、強烈な違和感があるんです」

「うん」

「俺はアズサを憎んでいるんです。でも、殺したいくらい憎んでいるだけで――たぶん、殺したいわけじゃないんです」

「うん」

「たぶん、俺は、アズサを」

「うん」

「解体したいんだと思います」


 マネキンにはそれぞれのパーツに繋ぎ目があった。

 首、肩、肘、手首、指の関節一つ一つ、脚の付け根、膝、足首。丁寧に時間をかければ、全て外してしまえそうな気がする。

「壊すのと、解体するのって、何が違うの?」

 桐谷が俺に訊ねる。

「壊すのは、抹消する、に近いと思うんだよ。俺は、ほぐしたいんだ。ほぐして、一個一個、確認してから捨てたいんだよ。俺の中にまだ存在している、『アズサについて』を」

 桐谷が困った子どものような顔をする。と同時、

「なんか、自分はわかるけどな。なんとなく。感覚だけど」

 宇部さんが言う。

「フォルダごと一気に削除するのは簡単だけど、フォルダに何が入っていたかひとつひとつ確認しながらは骨が折れる。でも、その『骨が折れること』を実行することでしか【完全に削除】できない何かがあるんじゃないかな。今の、彼の中には」

 俺の言葉を言い換えた宇部さんのそれは、きっと正しい。

 俺が言いたいのはきっとそういうことで、でもだからこそ、俺の言葉ではないからしっくりくることもなかった。

「デリート、する、って部分では、さして変わらないんじゃないのかな」

 桐谷が言って、

「さして変わらないことってのはね、少しだけ、でも決定的に違うんだよ」

 宇部さんが反論する。俺は言葉を発しない。ただアズサを模倣したマネキンの脚を引きずり、近くに寄せて、

「どこをどうしたら、関節は外れていきますか」

 宇部さんに訊ねる。

「……自分はこの子たちを着飾らせて、美しく仕立てる側の人間だから。パーツとしてほぐす方法は、自分で見つけなよ。君が見つけて、君がやるべきことだ」


 足首の関節を曲げてみる。ぎこちなく曲がり、同じだけの力を加えれば元に戻る。何度かねじっていると、奥に金属のようなものが見えた。

「包丁とニッパー、もらえますか」


 俺は桐谷に包丁を構える。ケースから刃先を出して、透き間にねじ込む。少しずつ肌色の部分を削って、金属を露出させていく。ある程度のところでニッパーに切り替え、強く力を入れる。ギ、ギィ、と不快な金属音が鳴る。さっきの風の音とよく似ている気がした。何度もそうしていると、強烈な手ごたえがあって、次の瞬間、足首がパカッと外れた。

「アズサ、いつも高そうな靴、履いてたんですよね。俺は薄汚れたコンバースだけだったのに。それでも一緒に歩いてくれてたんです。ライブ会場まで」

 膝の透き間に刃先を突き立てる。次にニッパーで金属を挟む。同じ作業を繰り返して、数分後には膝が取れる。

「ミニスカートがよく似合ってて。膝も小さくて、折れそうで、それがかわいいなあ、女の子の脚だなあっていつも思ってたんです」

 脚の付け根を外す。

「歩くのがすごく速い子で。俺はギターを担いでいることもあったから、置いていかれそうになって、そのとき初めて手を繋いだんです」

 手首をねじ切る。

「手もね、すごく小さくて。爪はいつも綺麗に塗られていて、指先がかさついていたことなんて一度もなくて。俺のギターだこが痛いって、けらけら笑ってたりして」

 肘を切り取る。

「腕を組んだことは……たぶんなかったかな。でも俺は組んでみたかったな。時々指先で触れたあの華奢な二の腕はいつも冷たくて、女の子は低体温気味だって、本当だったんですね。俺、アズサで初めてそれを知ったんです」

 肩を外す。

「お互いの友達何人も集めた飲み会で、べろべろに酔っぱらっちゃったアズサの肩を支えてタクシーに突っ込んでやって、あのときから距離が縮まったんだっけかなあ」

 首に、刃先を向ける。

「顔が、かわいいなあって。第一印象はそれでした。笑うとね、片えくぼができるんです。左の頬だけに。あれが本当に、本当にかわいくて。笑うときだけ、猫目が糸みたいに細くなるんです。屈託のない笑顔って言えばいいのかな。飾り気のない、くしゃっとした笑顔が、本当に、本当に、俺は」

 ごとん、と音を立て、首だけがプールの底にぶつかる。外れる。

「大好きだったんだと思います」

 複数のパーツに分かれたマネキンがプールに沈んでいる。

 そこには生きた三人の男がいて、そのうちの二人はぼろぼろと泣いている。




 マネキンはゴミ袋に詰めて、車のトランクにしまった。持参していた、アズサが残した下着も細かく刻んでそこに入れた。

「これは自分がうまいこと捨てるよ。埋めるって言っても、まあ確かに非現実的だったしね。ノリで犯罪に加担するってのもアレだしさ。自分もこっちのほうが気も楽だから、気にしないで」

 宇部さんがいう。

「すみません、ありがとうございます」

「マネキンが壊れることも、まあなくはないからね。それの延長線上だって思えばまあ、なんとかなるでしょ。それより、気は晴れた? 見た感じは、全然、ってふうに思えるけど」

 力を込めすぎて赤く痺れる手のひらを見る。

「よく、わからないです」

「ねえ、言い換えて考えるといいんじゃないのかな。まだ、アズサが心に棲んでいるかどうか、って」

 桐谷の言葉を受け、自分の深いところを漁る。全ての抽斗を見て回って、それから、

「もう、棲んではいないかな。ただ、そこかしこ置き土産だらけでさ……居場所に困るよ」

 手のひらを強く握る。

 痛くて、見えない、細かな傷に何かが沁みた。



 このあと、俺はまた桐谷と共に宇部さんの運転する車に乗って、地元へ帰る。

 ふたりと別れて、アパートの階段を上り、玄関の鍵を開けるとき、あのときを思い出して少しだけ躊躇うんだろう。


 眼裏にアズサが浮かぶ。

 けれどもうそれは、さっき落としたマネキンの顔でしかなかった。

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ラブレター 柴田彼女 @shibatakanojo

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