第20話 立たされ坊主

 前回N君が辞めて以来、K課長の歪んだ嗜虐性癖は課の中でもっとも若いS君へと向かった。朝から晩まで駄目出しの嫌味の嵐である。


 ついにS君は辞表を出した。辞める人間、辞める人間すべてK課長が悪い、と人事に言って辞めているのだが、それで何かが変化するということではなかった。


 以前に『開かれた会社』というのを標榜したかったのか、人事部が各社員にアンケートを出したことがある。直属の上司、つまりその課の課長への不満を書けというのだ。アンケート用紙は白紙の紙で、それに提出者の名前も記入した後、備え付けの封筒に入れろとなっている。

 この封筒、封はしないでくださいと書かれている。そしてその提出先は当の課長。

 こりゃいったい何の冗談だ?

 みな、白紙で提出した。


 S君の話に戻ろう。

 彼の不幸は、彼がその年三人目の退職希望者であったことだ。

 この会社の人事の規則では一つの課では一年に二人までの退職者が認められている。つまり課長の経歴に傷がつかないのだ。二人までは辞める奴が悪いんだよ、という考え方である。従って三人目の退職希望者は課長に必死で引きとめられることになる。


 I部長が飛んで来て、S君を牛鍋しゃぶしゃぶに連れて行った。

 だがS君の決意は固い。

 というより牛肉を食べさせれば退社を翻すと信じているこのI部長はいったい何者なのだろうと思わせる。不満を聞きだしたいならもっと早く聞くべきで、この段階でももう遅いのは誰の目にもわかる。

 バカと煙は高い所に登りたがるという諺があるが、本当は高い所に登るとバカになるというのが正しい。高い地位に登った瞬間、知性はすみやかに蒸発するのである。


 K課長の対応はもっと凄まじいものだった。この人の知性は課長の椅子程度で完全に蒸発していたのだ。

 S君は立たされた。

 課長の机の前にだ。朝9時の始業開始から机の前に直立不動で立たされ、お昼の時間もそのまま立っていた。そして夕方の定時までずうっと休むことなく立たされる。その間、K課長もS君もただ無言で睨みあっている。

 何というK課長の幼稚な行為。だがそれが業務命令の名のもとに押し通るのが会社というものだ。

 夕方定時になると、K課長がこう尋ねる。

「会社を辞めるのを止める気になったか?」

 どうすればこういうセリフが出るのか絶句である。


 あまりのことに見かねてK主任が猛抗議したが、K課長は聞く耳を持たない。業務命令と言われればただの平社員には止めることはできない。

「S君。あんまバカの命令はきく必要はないぞ」とK主任。

「いえ、仕事ですから」と返すS君。


 次の日も同じ光景が展開された。課長の机の前で立たされ坊主。

 帰宅時間になると、例の質問が繰り返された。

「会社を辞めるのを止める気になったか?」

 ここまでやられて引く人間がいるものか。

「絶対に辞めます」

 S君がきっぱりと答える。

 立派だぞ。S君。


 その次の日も。周囲に誰もいないK課長の机の前でS君は立ち続けた。今の時代なら明らかな人権侵害として起訴される事案だ。

 ここに至ってフロア中の人間の注目が集まった。百人入るフロアの四分の三は別の課である。あれは一体何だ。彼はどうして三日間も立たされているんだ。どう考えても異様な光景に、フロアにいる全員の視線が集まった。

 やがてフロア内の部長たちからK課長の直属上司のI部長へと連絡が飛んだ。

「お宅の課長、何かとんでもないことをしているぞ」

 I部長が飛んで来た。さしものK課長も、人閥の上の人の言葉なら言うことを聞く。


 ようやくS君は解放された。彼の辞職はついに受理されたのだ。

 送別会を断り、S君は消えた。

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